23-03 Spaghetii Napolitana

第23部 Preparation Of Training

奥多摩湖畔から12日目


(3)Spaghetti Napolitana ********************************************** 2413文字くらい



キッチンでは、

撩が朝昼兼用の食事を、一人でもそもそと口に運んでいた。

まだ温かさが残っているナポリタンを、フォークで大量に巻き込み

ずごごごっと頬張っていく。



撩の耳には、香がリビングのベランダに出て、

午前中に干していた布団を取り込む気配をキャッチ。

パタパタと聞こえるスリッパの音は、台所の前を通過して、

客間へと続く。

さっきも、自分がトイレに入っている時にも、

香が7階と6階を往復していたのを気配で拾っていた。



「んと、よく働くこと…。」



干さなければいけない原因を作った本人は、

全く他人事のように、ぼそりとつぶやく。

ついつい夕べのことを思い出しながら、

フォークをくわえてにんまりと口元が緩む。



「ぐふっ、これからどこでシちゃうかボクちゃん迷っちゃう〜。」



初めて自室以外での合体に味をしめた撩は、

脳内で本気の「どこでももっこり作戦」を勝手に描き始める。

恥ずかしがり屋の香が、どんな反応をするのか、

それを想像するだけでも、妙に楽しく、

いかに逃げられず拒否されないように

コトに持っていくか、完全自分中心天動説状態で妄想中。

それでも、付け合わせのサラダを口に運ぶのは忘れない。



「風呂は、まだダメっつぅーだろうな…。」

「え?今からお風呂入るの?」

「ぶっ!」

レタスが口から吹き飛んだ。

「や、やだ!何吹いてんのよ!」



キッチンに入ってきた香は、

眉を下げながらシンクの端にひっかけていた台拭きを取り、

撩が吹き散らかしたところを、手早く拭き上げた。

「お、おま、」

いつからそこに?とは聞けずに、珍しく素で言いよどむ。

脳内はまた香の気配に気付かなかった己に言い訳中。

これは香自身の無意識のグレードアップと、

相方とのもっこり妄想中に、

自身の油断の相乗効果がまた重なったと、とりあえず分析。



「なぁに?お風呂入るんだったら、早く上がってよ。

伝言板見に行くの遅くなるじゃない。

一人で行くなって言うんだったら、午前中にちゃんと起きてきてよね。」

撩の困惑をよそに、香はまた台拭きを流しで洗いながらそう言ってきた。

「あー、風呂は今は入んねぇーよ。すぐ食い終わるから待ってろ。」

撩は、わずかながらに赤くなり、バツの悪そうな味を含んだ顔のままがつがつと

残りのパスタとサラダを一気に片付けた。

「そう?だって、さっき…」

「あー、なんでもねぇって。」

添えられているスープをくいっと傾け、カラにする。

「ごっそさん!」

「お粗末様でした。」

香が食器を下げようとすると、撩はかしゃかしゃと自分でソーサーを重ねて、

シンクへ運んだ。

「あ、ありがと。で、でもお風呂入りたかったらいいよ?すぐ済むんだったら。」

「だから、今の話しじゃねぇってーの。」

「そ、そうなの?」

流しに並ぶ2人。

ちろりと香を見下ろす撩。

「……香。」

「え?」

ちょっと真面目な顔になってる相方に、香はドキンと鼓動が跳ねる。

「な、なに?」

思わず、胸に手を当ててしまった。

「……なぁ。」

「え?」

じっと見つめてくる撩。

ゆっくりと口が動く。



「今じゃねぇーけど…。」



トトトと、心音を自分の手で感じながら、

その唇から目がはなせない香。



「いつ、一緒に入ろっか?」



「は?」



きょとんとする香をシンクと自分の体で挟み込み、

両腕でも流しのへりに手をかけて香の逃げ場をゼロにする。

互いの距離ももうちょっとでゼロになるほどに撩の顔が香に近づく。

「な、な、な」

なんのことよ!と言いたい言葉が出てこない。

顔面のサーモグラフィは間違いなく高温を示しているに違いないと思いながら、

この撩の行動に理解ができず、口パクになってしまう。

見下ろしてくる撩の左右の瞳を交互に見つめ上げながら、

言葉の真意をさぐろうとするも、香にとっては全く言葉が足りないのだ。

鼻先同士がつんと当たり、

香がひゃっと小さく声をあげて、瞼のシャッターが落ちた。

とたんに、人工呼吸が始まる。



「んんーっ。」



自分の作ったナポリタンのソースの味がはっきりと分かる口づけに、

今何をされているかがより明確に認知され、

受けた刺激がまた脳を混乱させる。



「ふ…、ぅん。」



角度を変え、圧を変え、深さを変えと、

唐突に始まった接触に、困惑と照れと恥ずかしさが体をふるわせる。

ちゅっと吸引が軽くなったと思ったら、

唇を触れ合わせたままで、聞いてくる。



「こんだけで、こーんなになるんだったら、風呂だと爆発しちまうかもな…。」



ぎょっとして、香の目がパチンと開く。

もちろんドアップの撩の顔がピンぼけで視界に入る。

目を閉じている相方の容相にドキンと激しく脈打つも、

言っていることが今の言葉でやっと理解が出来、

同時に勝手に頭の中で一緒にシャワーを浴びるイメージが浮かんだ。



「でっ、出来る訳ないじゃない!って言ったでしょっ!」



ほぼ反射で100トンが振り落とされる。

こんなことを考えてしまった自分をごまかすための恥じらいハンマー。

見事に食らった撩は、

ハンマーの下から手足だけをぴくぴくと振るわせている。



「ま、全くっ!何のことだと思ったらっ!」

どすどすと足音を立てて、

キッチンを出る香の顔は濃〜いクランベリー色。

「さっさと出られる準備しちゃってよ!」

そう吐き捨て言葉を残して、バタンと扉を勢いで閉めた。



床とハンマーのサンドになった撩は、

くすくすと肩を揺らしながら、

ごろんと100トンを転がした。

「んと、かぁーいーこと。」

打ち付けた鼻先を指でこすりながら、

薄く微笑む。

「食後のデザートにしちゃ、ちょいとばかしオイタが過ぎたか…。」



うぶ過ぎるパートナーとのやりとりが、

まだまだ楽しめることに嬉しくもあり、

慣れたら慣れたでどんな香になるのか期待感もあり、

体を重ねるようになって、

12日目の今日もまた

どうやってイチャイチャタイムに持っていくか、

すでに撩は12時間後のことに考えを巡らせる。



「っと、その前に教授んちに電話だな。」

撩は、ひょこひょことリビングに向かっていった。


**********************************************
(4)へつづく。





撩ちん、からかうのも程々にしな…。

【アンソロジー】
参加者発表!応援してま〜す。

スポンサーサイト

23-02 An Afterimage

第23部 Preparation Of Training 

奥多摩湖畔から12日目  


(2)An Afterimage **************************************************** 2708文字くらい



香の午前中は、何かと慌ただしい。



一人の朝食をコーンフレークとヨーグルトで

ごくごく簡単にすませ、掃除に洗濯に、マスク付きの縄跳び、

その前にベランダで布団干しも。

昼食に素早くパスタとサラダを用意するも、

あまり空腹ではなかったので、半人前だけ取り分けて、

大急ぎで先に食事を済ませることに。

まだ片付けることが色々とあるのだ。



これまでも、

2食連続、3食連続の一人食べはそう珍しいことではなかったが、

アレから思い返せば、初めてかもと

甘いケチャップとトマトの酸味を感じながら振り返る。

すぐに食べ終わった食器を洗い、かごに入れて、

乾燥機の中身を取りに隣りの脱衣所へ向かう。

やっと、パルコで買った新しい衣類を一通り洗うことが出来、

それらをかかえて客間に入った。



「さっさとたたまなきゃ。」



ベッドの上に綺麗に折り畳まれた、下着やらスポーツウェアやら、

タオルやらが積み重なる。

てきぱきと終わらせ相方の衣類を選び持ち直すと、

その足で撩を起こしに行くことに。

トントントンと7階に続く階段を昇っていった。



「りょお?」

ノックをして扉を開け部屋を覗くと、

枕を抱き込んでごろんと横になっている相方が、

「ぐふふぅ…。」とか言いながら、

にやついた顔でむにゃむにゃしている。

当然、香の接近には気付いており、起こされたいがための

稚拙な演技。




香は、はぁと一息こぼす。

「もう!起こしにこなきゃ、っんとに昼まで寝てるんだからっ!

お昼出来たわよ!」

衣類を抱えたまま撩を呼ぶ。



「う〜…、まだねみぃ…。」

「じゃあ勝手に寝てなさい!あたし駅にいってくるから!」

がばっと起きる撩。

「ま、待てっ!一人で行くなっつぅーたろーがっ!」

「なっ。」

唐突に切り替わり、

ややキツめの命令形に、これまたややムムっとする香。

「昨日一人でのこのこ出かけて、唯香にとっ捕まっただろ?」

そう言いながら撩はベッドからのそりと足を下ろす。



「だ、だってあんたがっ!」

「あー、だからそのことは悪かったって。

とにかくこの界隈の連中が勝手に盛り上がっている間は、

あんまり一人歩きすんなって。」

頭をがしがし掻きながら立ち上がると、

んーと伸びをして、肩関節をくちくち言わせる。

「めし何?」

「あ、ナポリタン作っといたから。」

「んじゃ食いにいきますかね。」

「さっさと食べちゃって。片付かないからっ。」

「あんれ?香ちゃん、もう食っちまったの?」

「当然でしょ!いつまでも待ってられないわよっ。やること沢山あるのに。」

ベッドのわきにあるチェストにたたんだ衣類をしまう香。

「食べ終わったらすぐ伝言板見に行きたいから、あんまりのんびりしないでね。」

自分に背を向けたままそう言う香に、

思わずまた抱き込んでやろうかと不埒な思考が沸き上がるも、

とりあえず押さえて、伸びた腕を後ろ頭に回し、

部屋を出ることにする。

「へーい。」



覇気のない返事と階段を下る音が香の耳に届く。

「もう、教授宅の通いがなくなってから、また昼までコースが戻ってきたじゃない。」

奥多摩直後から、美樹の入院のサポートで、

教授邸を往復していた時は、朝からグータラするゆとりは殆どなかった故、

比較的早寝早起きを求められていたのだが、

昨日今日で、撩のリズムに引き込まれそうになり、

いや一部引き込まれてと、すでに色々と困る事案が増えている。



「何もすることなかったら、あたしもゆっくりしたいわよ…。」

思わず本音がぽろりと出てしまう。

省略された言葉は、



— あたしも “あんたとここで” ゆっくりしたいわよ… —
  


はっとなって、三本指で口元を押さえた。

確かにフルタイムの勤めに出ているワケではないのだから、

その気になれば、優先順位を変えることはいくらでも出来るはず。

しかし、習慣ともなっている日々の日課は、

そうそう先送りすることは出来ない。

自身の規則正しい生活に多少の弛みを与えるのには、

まだまだ抵抗がある香であった。



「さてと…。」



香は、撩が寝ていたところを簡単に整え、

自分も階下へ降りて行った。

途中、あっと思い出し、小走りで客間に戻ると、

伏せられたフレームを元に戻して、

撩が持参したボックスティッシュを持ち、

換気のために開けてあった2ヶ所の窓を閉めた。

持っているものがどうにもこうにも、アノことを思い出させるので、

軽く拳でこめかみをコンコンと叩きながら、

また撩の部屋へ向かう。

文字通り、愛の巣と化しているこの場所に、

なかなか冷静な面持ちでは、この空間にいられない。



「どうしよ…。」



ベッドボードの上に持ってきたものを置くと、

ふいにそうつぶやいてしまった。

実はこの12日間、自分にとってかなり困った状態が続いている。

生活リズムの乱れよりも深刻なソレは、

即解決できる方法は全く見当たらない。




撩がそばにいる時も、

撩の衣類を扱うときも、

撩の持ち物を視野に入れるだけでも、

撩の部屋にいるだけでも、

全てが秘め事への連想に直結してしまう。



今まで知り得なかった男の姿が、

これまで体験することのなかった愛されるという行為の残像が、

常に頭の片隅でくすぶり続け、ちょっとしたきっかけで

その熾き火が、勢いをつけて他のことを一気に追いやってしまう始末。

その度に、慌てて「ひっこめ!」と扉の向こうに押しやり

バタンと締めるも、常にぎゅうぎゅうとその戸板はしなり、

ノブもガチャガチャ音を鳴らし、

スキあらば出てこようとするのだ。



残像と言っても、行為の時の多くの時間は、

目を閉じたままであることが多い故、

主に視覚以外の記憶によるところが割合を占めつつも、

稀に視界に入る男の姿は、殊更強烈で全てに慣れない香にとって、

過剰な刺激続きの日常に、

切り替えスイッチの機能がかなり低下していると、

本人も自覚せざるを得ない事態に。



「……はぁ、……慣れっこ、ないよぉ。」



撩のベッドのそばで立ち尽くしたまま、

両手で顔を覆う。

こんなことを考えているだけでも、

顔の表面に血液が集まっているのが分かる。



「こ、これじゃ、ホントに仕事に支障がでるわ…。」



こんないやらしいことばかりを考えてしまうような自分が

情けなく、恥ずかしく、腹立たしく、

撩とやっと共に生きることを確かめ合って、

目出たくも初恋の相手との想いが叶ったというのに、

嬉しさや喜びの反面、このままではいざという時に、

絶対困ることになると、対策を考えるも、

やはり妙案も出るはずもなく、

再び悩ましい溜め息を吐く。

これでは、撩のことを「もっこり大将」とはののしれない程に、

自分もまた、常にアノことに意識が傾いてしまう。



「布団、…取り込まなきゃ。」



耳からプスプス湯気を出しながら、

香は、半ばふらつき気味で撩の部屋を後にした。



************************************
(3)につづく。






カオリン、頑張れ〜。

【お詫び】
もくじ、お返事等々、週明けまで猶予を頂ければと…。
こちらの優先順位を上げられなくて申し訳ございません…。
2013.06.28.21:25.金

23-01 Household Trash

第23部 Preparation Of Training (全10回)

奥多摩湖畔から12日目 


(1)Household Trash ************************************************* 3546文字くらい



あれから12日目の朝、

目が覚めたら一人でいることに気付いた香は、

すっぽりと布団にくるまれている。

がばっと上半身を起こすも、

めくれてあらわになった自分の肌に驚き、思わず声がでる。



「なっ!なんで…って、…あ、」



掛け布団を引き寄せながら胸元を隠し、昨晩のことを思い出し始める。

状況を振り返り、かぁああと恥ずかしさで

いつも通りに頬が染まる。

そもそも、

客間兼自室で、素っ裸の自分がいることそのものが初めて。

さらに布団を肩まで引き上げた。




「……りょ?」



相方の気配は全く感じない。

外の明るさがカーテンを通して部屋に光度を与えている。

まわりを見渡すと自分の脱がされたパジャマが目に入り、

夕べの記憶がより鮮明になる。



「だ、だめ、だめだわ…。こ、ここで、

あ、あんな、こ、こ、こと、ししし、しちゃった、なんて…。」

撩の感触や声が思い出され、

強烈な照れと後悔に似た感情が沸き上がる。




ふと見ると、

電気スタンドの脇にある写真立てが表面を下に倒されている。

撩の部屋にあったボックスティッシュがその横に。

また部屋の角にある抜け穴のフタが開きっぱなしで、

扉の千錠はそのまま。



ぷっと吹き出す香。

恥ずかしさと照れくささと可笑しさで、また更に頬が色を重ねる。




自分がこんな格好をしているので、

今はまだ写真立てを元に戻す気にはなれない。

わざわざティッシュを持って来たことに、

これが撩の夜這いセットであることを

今回のことで深く納得した。

過去、依頼人に遊び半分でしかけていた慣習の中で、

香はどうしてティッシュが必要なのかいまいち分かっていなかったのだ。

自分の部屋には、見えるところにボックスティッシュを置いていない。

鏡台の深い引き出しが指定席。

大概白い四角いコットンで用をすませていたので、

持参してきた相方に、ますます可笑しくなった。



「これ、ここ用に置いといたほうがいいかしら…。」



と、ぼそっと自分でつぶやいた文言の意味に気付いて、

ぼぼっともう一段赤くなる。

「なっ、な、な、なに言ってんのかしらっ!ああああ、あたしったらっ!!」

顔を両手で思わず隠してしまう。

はらりと布団が落ちて愛らしい双球が腕の間で丸見え状態。

つまりは、今後もここで、あーゆーことが起こりうることを

肯定するような言い回しを自分の口から言ってしまったことが、

独り言とはいえ、

かなりこっ恥ずかしく、勝手に頭部から湯気を上げている次第。



「だだだだ、だめよっ!ここは今後も依頼人のヒトが使うんだからっ!」



とてもじゃないが、

自分と撩が裸で過ごした場所を来客に使わせるということに、

抵抗をなくすことは出来ない。



「もうっ!」



香は頭をぷるるるっと振って、

ベッドサイドの時計を見直した。



「え!7時半過ぎてるじゃないっ!」



香は、がばっと布団から出るも、一糸纏わずであることを一瞬忘却、

慌てて布団の端を引っ張り上げ、自分の体を隠しながら下着を拾い集めた。

超照れ屋の香、今は誰もそばにおらず、誰にも見られていないのは分かっていても、

やはり大事なところを晒して、この部屋を歩くことは出来ないと、

布団の中でごそごそしながらインナーを身につける。



汗をかいたり、あそこが濡れてきたりする前に、

早々の段階で脱がされたせいか、

殆ど汚れもついていないので、

そのまま今日一日身につけることにした。



「は、早く行かなきゃ!」



香は、大急ぎで外着に着替える。

ジーンズに薄手のタンクトップに腕を通し、

ボーダーのハイネックから、にょっと首を出して、

くびれのある腰回りに布地を押し込む。

白のトレーナーをがばっとかぶり、靴下を履いて、

落ちているパジャマを拾ってたたみ、ベッドの端にとりあえず置く。

すかざす鏡台に向かい、跳ねたくせ気をいい加減にブラシでごまかす。

スリッパをつっかけ、千錠を超特急で解除し、ダッシュで洗面所へ駆け込んだ。



「は、8時までに間に合うかしら?」



簡単な身支度だけで結構時間はとるもので、

軽く顔を洗って、口を漱ぎ、トイレを済ませて、

キッチンに飛び込んだのは、7時55分。



「あ、あら?」



昨日、まとめたゴミ袋がない。

「え?どういうこと?あたし、別のところに置いたんだっけ?」

4階5階のゴミを見回ってから、確かにここでゴミ袋の口をしばったはずと、

記憶を引っ張り出している時、

玄関のドアが、がちゃ!ばたん!と開いて閉まる音がした。



「ええ?」



香は、驚いて吹き抜けに続く扉を開けると、

頭がぼさぼさの撩が、スウェット姿で髪をぼりぼり搔き上げながら、

6階のフロアに向かって階段をひょこひょこと登ってくるところに遭遇。



「りょ、撩?」

朝からどこに行ってたのよ、と尋ねる前に、先にその答えが返ってきた。

「おー、起きたか。ゴミは捨てといたぞぉ。」

「へ?」

「つーわけで、ボクちゃんもっかい寝直すわ。」

「は?」

「昼飯出来たら起こしてくれ〜。」

「は?」



眠そうな表情は作り物なのか、そのまま猫背で7階に昇る撩。

パタンと閉まる扉の音。

固まる香。




「も、もしかして、早起きして捨てに行ってくれたの?」



目が点になる。

「う、うそでしょ?」

らしくない。

撩がそんなことするなんて心底信じられない。

それとも、一緒に寝ない宣言が相当影響しているのか、

考えられない相方の行動に、手すりに指をそえたまま、

香はポカンとフロアで立ち尽くしていた。







一方、撩は自分の広いベッドにどさりと身を預け、

組んだ指を頭の下に、開脚した長い足はYの字に投げ出して、

はぁと一息つく。



つい今しがたの自分の一連の行動が、

まだこっ恥ずかしい。



自分がゴミ出しをしている姿は周辺住民には見られてはならないという

妙なプライドが湧き、

アパートの出入り口から様子を伺うこと数分。

まるで潜入を試みる忍者のように怪しげな容相を醸し出す。

向かいの白人も、隣りの探偵も、その他通行人も、

自分をキャッチしないことを確信して、

瞬間移動をそのまま実践したかのように、どぴゅん!と集積所までゴミ袋を持って行き、

速攻でカラス除けネットをめくってもどして、

瞬足でアパートに戻った。

慌てて締めたその出入り口の向こうで扉に寄りかかり、はぁと一息吐く撩。



「かぁ〜、やっぱスイーパーが本当のゴミ捨てんのって、どうなんでしょ…。」



いやいや、カオリンと寝られなくなるくらいなら、

これくらいはっ!と思いつつも結構大きな抵抗感があったりする。




香がここにやってきてから、

自分でゴミ捨てなどした記憶がない。

なら、その前は一体どうしていたか、かすれかけている記憶を引っ張り出すも、

そもそもアパートで過ごす時間そのものが少なかったのだ。

ただ寝るだけの場所、

生活ゴミなど、そうそう多く溜まるものではなかったし、

あったとしても、槇村がせっせっと片付けていたことを思い出した。



「んー?じゃぁ、その前はどーしてたっけな?」



コンクリートの天井を見上げながら振り返ってみる。

ここで、暮らし始めて間もない頃は、

教授宅居候の時よりちょくちょく通っていた

馴染みの店のママが請求ついでに片付けてくれたり、

裏の情報をやりとりしている輩が訪ねに来た折りに、

見るに見かねて掃除をしてくれたりと、

あまり自覚のないところで、

周囲がそこそこお節介を焼いていた。

10年ほど前のいらない情報は削除寸前状態、

そう言えばと思い出す。



そして、80年代に入り槇村と組み、ここが拠点となり、

改めて、この兄妹が撩の生活空間を快適で居心地のよいものにしていたのか、

再認識させられる。




——  感謝しろよ…  ——




幻聴か、聞き覚えのある声に、

昨晩伏せた写真立ての中の槇村の顔が浮かぶ。

目を閉じふっと息を鼻から小さく出す。



「あいあい、わーってますよぉーだ。」



んーっと両手を頭上に伸ばしながら、

右肘に左手をひっかけ、くちりと関節を鳴らした。

撩は、寝ぐせのついた髪のままで、

あくびをしつつ階段に向かって進路をとる。



そして、戻ってきたとこで、吹き抜けに来た香と遭遇した次第。

本当はまだ寝ているもんだと思っていたが、

玄関を開ける前から気配に気付き、一瞬別ルートから部屋に戻ることも考えたが、

開き直って、突っ込まれることを覚悟した上で、

室内に向かった。



驚く香の顔がまた、可愛らしくて可笑しくて、

思い出しながら、ベッドの上でくすくすと笑いが漏れる。



「まぁ、俺だって信じらんねぇーよ…。」



激変という言葉では足りない。

変わり過ぎて、お互い色々信じられないのもムリはない。

むしろ、今までの状態がヨソからみたら信じられないこと。

しつこいが、

惚れたオンナと共に暮らし、健康体の適正年齢期の男女が、

はからずも相思相愛にまで発展した関係に、

長期間何もなかった方が、一般的にはアンビリーバブルなのだ。



「ま、時間がたちゃ、慣れんだろ…。」



そう、つらつらと考え事をしながら、

撩は、もう一眠りすることにした。



*********************************************
(2)につづく。






というワケで、ゴミ捨て回想をさせてみました。
平成の昨今、旦那さんがゴミを捨ててくれるシーンは、
ドラマや漫画でもフツーに描かれていますが、
昭和の時代、
まだまだ、オトコがそんなことをするなんてカッコ悪い的な
空気があったような。
1991年頃だと移行期あたりになるのかしら…と。
撩ちん、カオリンとのもっこりのためならっ、と
ちょこちょこ家事を頑張ってもらってます。
ちなみに、当サイトでは、
撩が入国した時期を1979〜1980年のハタチ頃、
1年ほど教授宅居候で、
1980年代初頭頃から冴羽アパートに入居&槇兄ぃと組む
というイメージ年表です。
(四谷のじいさんのお話しは初期の設定未成熟による脱線事例ととらえております)


【誤植情報感謝!】
Sさま:ここの千錠はそのままにすることにいたしましたぁ〜。
ご連絡本当にありがとうございました!
2013.11.16.03:00




22-02 Immorality (side Ryo )

この記事を閲覧するにはパスワードが必要です
パスワード入力

22-01 A Single Bed

この記事を閲覧するにはパスワードが必要です
パスワード入力

21-12 Welcome Home

第21部 Invasion Of A Novelist

奥多摩湖畔から11日目  


(12)Welcome Home ************************************************* 2617文字くらい



寝言が口から出た自覚があった。



「りょ…。」

「呼んだか?」



ぱちっと目が開く。

温かい何かが自分に後から巻き付いている。

嗅ぎ慣れた匂い。

慌てて振り向く。

「なっ!ああああんた!何してんのよっ!」

「んー?よ・ば・い♡」

「と、とらっ、」

「あー、トラップ確かにバージョンアップしてたがな、まだまだだな。」

また、部屋の角の抜け穴のフタが開いている。

撩はすでに一緒に布団の中。



全く気付かなかった自分に、

これが撩以外だったらどうするつもりだったのかと、

油断した己に情けなく思うも、

今まで心配しすぎて、涙をためていたことを知られたくない心情も重なり、

焦り戸惑い困惑を、とりあえずごまかそうとする。



「い、いいい一緒に寝ないって、いいい言ったでしょっ!」

言いたくないと思いつつも、いつもの自分を作る為に、

本音と逆の言葉を出してしまう香。

抵抗する動きの中で、

なんとかさりげなく目元をパジャマの袖で拭った。

「あんれぇ〜?ボクちゃんがいなくて寂しい〜って思ってたんじゃないのぉ〜。」

かっと頬の色が変わるのが自分でも分かってしまう。

図星をさされ、ますます口が動きにくくなる。



「ばっ、ばか!そそそんなワケないじゃないっ!は、放してよっ!」

「やぁーだもんねぇー。言っただろ、止められない自信は100%だって…。」



撩は、後ろ抱きのまま、

右手で香の前頭を包み、左腕は細い腰回りに深く絡ませ、

ぐっと抱き寄せる。

「りょっ…!」

さらに両足も巻き付いてきた。

たぶん、撩の体は少しベッドからはみ出ているかもと、

ここで一緒に横になっている恥ずかしさで、

気持ちが一杯一杯になりながらも、

すでに撩がTシャツとトランクスであることに気付く。



「めし、旨かったぜ。」

耳の後ろ直近から囁かれる。

本当は、『おまぁと食ったらもっとうまかっただろうけど』と

言いそうになったのを、柄じゃねぇと、寸でで止めた。

「え?」

食事まで済ませていたのかと、重ねて驚く香。

そして、撩がちょっと本気を出せば、ターゲットに気付かれずに、

ベッドに潜り込むことは、いかに簡単なことであるかを

今、思い知る。

あの気配丸出しの夜這いは、ある意味演出だったのかと、

香は捕獲されたまま、はぁと息を吐き出した。



「……どこ、行ってたのよ。」

「……今後のための、…準備、かな?」

「は?なにそれ?」

思わず振り向いてしまったとたんに、はむっと唇が食べられてしまう。

「んんんっ。」

そのまま撩は自分の体をくるりと左へ大きく回転させ、

香の体の位置も微調整し、器用に組み敷く体勢に持っていく。



「ふ…、ぅん…。」



ちゅく、ちゅっと音を立てるキスをしながら、

小さな頭を両手でふわりと包み、じわじわと下降させて頬を温め、

頸動脈の拍動を指で確かめると、

鎖骨に手の平を滑らせながら、肩骨経由で上腕をさすり、

そのまま大きな手は細い手首をくっと握った。

終点の指先まで到着すると、全ての指を絡ませ握り込む。

香の顔の両サイドで、撩の親指が自分のそれを愛おしく撫で動く。

目をきつく閉じ、両眉の端は下がり、鼻で必死に呼吸をしようとする香。



しかし、まだ香の指は絡まってこない。

つとわずかに離れる撩。



「また、…泣かしちまったな。」



どきりとして、つい目が開く。

やっぱりバレたかと、自分の甘い隠蔽工作は無駄だったと知る。



「……悪かった。……もうちっと早く戻るつもりだったが、

連絡が取れないヤツがいてな、…それで遅くなっちまった。」

目の前のオトコはすまなそうに自分を見下ろす。

「…え?何?何のこと?」

きょとんとしている香にくすっと鼻で笑みが出る。

「だ・か・ら、ちょっと準備することがあってな、欲しいもんを持っているヤツが

捕まらなかったんだよっ。」

「じゅ、準備?な、なんの?」

ふっと表情が緩む撩。

鼻先同士を触れ合わせる。

近過ぎて焦点が合わず、慌てて目を閉じる香。



「おまぁの訓練の準備。」



その言葉と同時に、またねっとりと上唇下唇が重なり合う。

「んんっ…。」

顔の角度を細やかに変化させながら唇を味わう撩。

まだ、香は自分から唇をあまり動かせず

9割9分が受け身の状態。

そんな愛らしい唇をちゅぽんと吸って離れると、

おちゃらけ口調で宣言する。

「つーワケで、ボクちゃん、ストップ効かないんですけどぉ〜。」



すでに、撩の匠なキスで、とろんとしている香。

確かに酷く心配をしていた。

そこに一人で寝る寂しさが上乗せされ、涙を流した。

そして、ちゃんと帰って来て、深夜になった理由も聞けた。

どうやらシャワーも浴びてきたのか、外歩き特有の匂いもなく、

自分が用意した食事も食べてくれた。

ちゃんとすまなかったと、謝罪の言葉も聞いた。

すでに自分は、この撩に触れられていることで、すっかり脳が蕩けてしまっている。



これでは、

この先お断りとは、とてもじゃないが口に出せない。

香は、さっきまで自分が何を望んでいたかを振り返る。




撩のぬくもりを、感じたい。




「……りょ。」

目を閉じ朱色の頬のままで、香がゆっくりと唇を動かす。

「……電話、くらい、……よこしなさい、よ…。」

「わりぃ。」

「……あんたにも、…発信器、付けといたほうが、…いいかもね。」

「んー、…考えとく。」

そういいながら、香の首筋に吸い付き始める。

「ぁ…。」

顔を枕に埋め、さらに白いうなじを露わにする香。

「進んじゃうよぉ〜。」

「……ばか。」



香は、もう自分自身に抵抗することを完全に諦めた。

さらにきゅっと強く閉じられる瞼。

無事の帰宅に、

つい先ほどまでに重く抱えていた不安感がさらりと流れ去って行く。

ゆっくりと顔を動かしながら、同じ早さで瞼を動かした。

真上の撩の目の中に自分が映り込む。



「……りょ。」

「ん?」

「……ぉ、かえり、なさい。」

動きをふと止めた撩は、真下にある香の顔を見下ろすと

柔らかい表情で、濡れた睫毛にそっと唇を寄せた。



「……たらいま。」



明るくふざけた言い回しは、自分の照れをごまかすため。

目元から、こめかみ経由で耳介に滑る唇を感じ入る香。

撩の髪の毛が自分に触れるたびに、くくっと胸が締まり、

どうにもこうにもくすぐったく恥ずかしい。

それでも、こうしていたいと

自分の思いに素直になることを選んだ。



香は、絡まっている両指8本をようやく少しずつ曲げて

撩の手の甲の上部に指先が触れる。

承諾のサイン受け、

狭いシングルベッドの上で、

撩は途切れなくそのまま優しく愛撫を与え続けた。


****************************************************
第22部(1)につづく。パス付きになります。





初のカオリンルームでの仲良しタイム。
撩ちん、電話をかけられない場所にいたってことで、
遅くなるコールできませんでした〜。
大急ぎで帰宅して、大急ぎでメシ食って、シャワー済ませて
もろもろ片付けて、夜這いタ〜イムということで〜。
カオリンが連日いちゃいちゃに疑問を持ち始めるのは、
一体いつになるのやら…。
気付かせるのがちょっと怖い気も…。


【修正!!】
Nさん!ご指摘大感謝!
もう、今月から超荒削り状態での発信になりかねんと
思っていたところに、
へんちくりんな日本語早速混入でございました…。
2ヶ所直させて頂きました。
たぶん、過去にも未来にも
凡ミス&シリアスミスオンパレードの可能性大。
みなさんの赤ペンチェック大歓迎でございますぅ。
取り急ぎ御礼申し上げます!!
2013.06.20.22:58

21-11 Absence

第21部 Invasion Of A Novelist

奥多摩湖畔から11日目 


(11)Absence ******************************************************* 4066文字くらい




香は、4階と5階のベランダに溜まっていた

落ち葉やら風で飛ばされてきた紙くずやらを回収し終わると、

自分たちの生活空間の6階と7階にある

各部屋の巡回を始めた。

撩の部屋のゴミ箱も回収。

ティッシュがたっぷり捨てられている様に、

花粉症ですとは言えないこの痕跡は、

また香の顔を赤くした。

「やっぱり明日も出さなきゃだめじゃない!」

これはこれで数日放置したら、困る事になりそうだと、

こまめな廃棄を心がけることに。

その後、脱衣所や自室を巡って一通り回収終了。

なんとか、ゴミ袋1つ分がそこそこ埋まった。



「これでいいわね。」



キッチンでエプロンをつけ、腕まくりをして手をざっと洗うと、

30センチ鍋を取り出してたっぷりと水を注ぎ入れた。

メニューは焼うどん。



キャベツ、タマネギ、ニンジンを切りそろえ、

金ザルで水洗いをする。

固めに茹で上げた麺もまた別のザルで湯切りして、

冷水でぬめりをもみ落とす。

パズタと同様にオリーブオイルを軽くかけ回し、

全体に艶がまわるように混ぜ合わせた。

中華鍋に牛の薄切り肉を先に炒め、火が8割程通ったところで、

野菜を投入、しんなりしたところで、うどんを加える。

十分加熱されたところで、塩こしょうをふりかけ、

最後に醤油をじゅうっと円を描くように細く長く纏わせる。

鉄板に触れた黒い液は小さな泡を出しながら、

芳香を醸し出す。

火を止め、ざっくりと麺と具をなじませて、主食の完成。




自分の分は少なめに盛りつける。

撩のを取り分けようとして、はたと気付く。

時間は7時半。



「まだ、ぶら下がっているのかしら?」

香は、リビングに向い、電気をつけるとまっすぐに窓に向かった。

ベランダに出て下を覗き見る。



「……いない。」



ロープを引き上げ、上がってきた布団はもぬけのカラ。

「まぁ、あいつがこっから抜け出すなんてワケないと思うけど…。

まったくどこ行ったのかしら?」

出かけたのか、靴を確認しに行くことにする。

「あ、ない!もうっ、いつのまに!」

おそらく4階と5階の部屋を回っている時に、

入れ違いになったのだろうと、勝手に動きを呼んだ香。



ダイニングキッチンに戻り、一人で食事をすることに。

撩の分は、ラップで包み取り置く事にした。

「まったく、折角ツケを清算したばかりなのに、また増やされたら

たまったもんじゃないわ…。」

ブツブツと口は文句を言いつつも、

一体どこに行ったのか所在が完全に掴めていないことに、

じわりと不安の芽が生えてくる。

とりあえずさっさと食べ終わり、

食後の片付けを済ませ、軽く雑用もこなして一区切り。



「8時前か…。」



中途半端な時間に、自分がすべきことを思いめぐらせ、

ひとまず、トラップのチェックと侵入者の探知機が正常に作動するかを確認をしようと、

また居住空間を巡り始める。

エマリア共和国の輩が侵入した時以来、取り入れた装備。

また類似の事案が起きても対応できるように

教授からの援助で設置した小型動体センサーは、

冴羽アパート内の各所に、

すぐには見えないように設置してある。



「よし、ちゃんと働いているわね。」



それぞれに手をかざし、

機器の側面にある小さな赤いランプが点滅するかを見て回る。

リビングのテレビにモニターが直結しているソレは、

小林みゆきをガードした時に大いに役立ったが、

香は出来るだけ出番がないことを祈りつつ、チェック作業を進めて行った。





「よっと、これで最後ね。」

踏み台から降りた香は、手をパンパンとはたき、

腰に手を当て確認箇所を見上げる。

1時間ほどをかけてようやく見回りが終わり、

リビングに戻ることに。



「ふぅ…。」



自分一人の空間が、妙に静かに感じてしまう。

ソファーに座り、一息つこうにも、やはりなんとなく時間がもったいない。

撩のパートーナーとして、すべきことは複数あるももの、

一人で出来ることは限られてくる。

気分が乗る乗らないも心理的に大きく影響するのもあり、

今、この時間で何をしようか、しばし迷う。

腕を組みながら、うーんと悩む。



「ストレッチでもしておこうかな……。」



何が起こるか分からない職業故、体の柔軟性を低める訳にはいかない。

リビングでテレビをラジオ変わりに流しながら、

フローリングに腰を下ろすと、ゆっくりと開脚し、前屈から始めた。

「んーっ。」

順に普段出番の少ない筋を柔らかく伸ばす。

もともとエアロビを積極的にしていることもあり、

心地よく、各所の筋肉に適度な刺激を与えていく。

そうこうしているうちに、バラエティ番組が1本終了。



ちらりと置き時計を見る。

「まだ、帰ってこない、か。」

何も言わずに出て行った撩のことが急に心配になる。

「い、今までこんなこと、いくらでもあったじゃない…。」



気を取り直して、

見損なっていた映画を1本見て消化することにする。

キッチンから唯香が来た時に出したクッキーを出して来て、

鑑賞しながらコーヒーと一緒にかじることに。

しかし目に流れる映像は映るものの、

全く集中できない。

はたと気付いたら、いつのまにかエンドロールが流れていた。

「え?お、おしまい?」

はぁ、と溜め息をついてリモコンをいじる。

「うー、また見直さなきゃだめだわ、全然内容分かんなかった…。」



テレビ画面よりも、ちらちらと見ていた時計は、

12時前を指している。

この時間でもまだ戻ってこない撩に、

芽生えた不安がさらに成長し膨らむ。

思わず立ち上がって、両腕をきゅっと自分にからませる。



(最近は出る時、ひとこと言っていたけど…。)



改めて周りを見直すも、書き置きなどは見つからない。

電話機が目に入り、

思わず、美樹のところに電話をしようと思うも、

入院中でキャッツも休みであることを思い出す。



(ミックのところ?)



ベランダに出て対面のビルを覗くも明かりは消えている。

「一緒に飲みに行ったのしら?」

もしかしたら、本気で機嫌を悪くしたのではと、

思考はマイナス要素のじわりと割合が増えてくる。



「どうしよう。探しに…って言っても、まだ出歩くのは…。」



迷う。

この時間に一人歩きをする方が、撩に余計な心配をかけてしまうことは、

十分に分かっている。

探しに行く宛ても絞れているワケではない。

再び時計を見直すと、日付けを跨いでいる。

耳をすませてみるも、玄関が開く音も、足音も聞こえない。




「こ、こんなこと、フツーよ、フツーっ!」



朝帰りは日常茶飯事、どこに行くとも何をするとも言わずに

夜の不在は、これまで極当たり前だった。

いつしか、遊びなのか、情報収集なのか、裏の仕事なのか、

なんとなく読めるようになりつつも、

それでも、ちゃんとここに戻ってくることに、

この場所が自分たちの居場所であると、

何があってもここに帰ってくることを、信じることが出来ていた。

ただ、それは、関係が変わる前の話し。




奥多摩から戻ってきてから、

何も告げずに遅くまで帰宅しない撩の動きは、

今回が初めてなのだ。



「い、いつものこと!き、気にしない!」



言葉とは裏腹な思いは、ますます育っていくも、

昼間に一緒に寝ない宣言をしてしまったこともあり、

リビングで待ち続けるのは、バツが悪いと、

とりあえず、自室で横になることにした。

テレビと照明を消して、戸締まりを確認すると

着替えやら、歯磨きやら、洗顔やら、トイレやらを済ませ

パタパタとスリッパの音が響く廊下を進んで客間兼自分の部屋に入った。

夜這い防止と賊侵入警戒のために、一応カギとトラップはしっかりしかけておく。

しかし、その手がふと止まってしまう。




この強烈な寂しさは一体何なのか。

それに同調するように不安ばかり大きくなる。

こんなこと、いままで日常であったはずなのに、と

撩と一線を越えてから、こんな思いを抱きながらの一人寝は初めて。

カギに指を添えたまま、ふと後ろを振り返り、

自分のシングルベッドを複雑な心境で見つめる。



「きょ、今日は、ここで寝る、しかない、わよ、ね…。」



実は、今の気分は撩の部屋で、撩の匂いを感じながら

あの部屋で帰宅を待っていたいという、

自分でも信じられないような面持ちになっていた。

ただ、くだんの一人寝宣言の手前、さすがにそれは出来ないと、

香は首をぷるぷると振った。

再度、ちゃんとカギがかかっているかを確認し、

扉のそばのスイッチに触れ照明を消した。

サイドランプだけが光源として残り、パジャマ姿の香を仄暗く照らす。

ぎしりとベッドに腰をおろし、写真立てにふっと視線を送る。



「だ、大丈夫だよ、ね…。」



兄の同意が欲しいと思いつつも、

一度伸び始めた焦燥感は、心の中でツルを四方に広げ始めた。

もうすぐ午前1時。

「も、もう寝よ!」

ばさりと布団を頭から被る。



11月の夜、そこそこの寒さは、

これまで撩と一緒に寝ていた温かさをより一層強く思い起こさせ、

感じる室内の気温がさらに低く思えるほどに、

すっぽりと被っている布団の中はちっとも温もらない。



「さむ…。」



自分を抱きしめるように身を縮こませ、背中を丸める。

不安、淋しさ、寒さ、そんなものがどろどろに混じり合って、

目を閉じても、

考えうるありとあらゆる『もしも』が、瞼の裏で描かれる。



「りょ…。」



眠りにつけず、何度も何度も寝返りを打ってしまう。

「大丈夫だよね…、ちゃんと、帰ってくるよね…。」

か細い声がつい漏れ出る。

そのとたんに、目尻に涙が溜まリ、ぽろりとこぼれ始めた。

こんなことなら、あんなことを言わなければよかったと、

今自分がここに一人でいることが、

己の作った流れであることを振り返る香。



「ぅ…。」



声を押し殺して、肩をふるわせる。

言いようのない心の不安定感がじわじわと広がっていく。

( とにかく、無事にここに帰って、来て…。)

明らかなに、関係が変わる前と後では、

この所在不明の状態での一人待ちの心理に変化が出ているのだ。



「りょ…。」



くっと目をきつく閉じる。

何事もないことを祈りながら、

一緒に寝ないと断言してしまった己の発言を後悔しながら、

心地の悪い緊張感と寂しさに塗られていく。



しばらく香は、なかなか寝付けずにいたが、

泣くことを抑えるのに、思った以上に疲労してしまい、

夢と現実を浅く行ったり来たりしていたが、

そのうち、ふっと意識が落ちてしまった。


****************************************
(12)へつづく。






リアルはもうクソ暑い季節ですが、
11月中旬の晩秋&初冬は、
布団がえらく冷たく感じてしまいます。
香ちゃん、なんだか連日泣かせてしまってごめんね。

21-10 401

第21部 Invasion Of A Novelist

奥多摩湖畔から11日目 


(10) 401 *************************************************** 3244文字くらい



「なんか、今日半日損した気分だわ…。」



香はキッチンで、ぼそりとつぶやいた。

そうこうしているうちに、

もう夕食の支度もしなければならない。



「はぁ…。」



グラスを洗いながら、これからどうしようかと、溜め息が出る。

唐突の唯香の襲撃と、撩の態度の急変に、

やはり気分も体も全然追いつかない。



それにしても、日中を大きくふいにしてしまったのは、

結果的に自力で起きることができなかった己が悪いと思いつつも、

撩と過ごす夜が、こんなにも心身共にエネルギーを要するとは、

わずかな予測は持っていたが、

これまた想定の範囲外のレベル。



「あたしに、もっと体力あれば、な…。」



と声に出したところで、かっと赤くなる。

「な、な、なに考えんのよっ!あたしったらっ!」

そこで、はたと気づく。

「あ、あれ?明日は、ゴミ出しは、……しなくても、いい日?」

壁に貼ってあるゴミ収集のカレンダーを見直す。

3日前の可燃ゴミの日に出してあるので、

量もそんなに溜まっていないはず、と各部屋の状況を思い出す。

それなのに、一人で寝る宣言をしてしまった。



「う…、どうしよう…。」



正直、自分だって撩と別に寝る事は、好き好んで選びたいワケではない。

関係が変わってから、ぬくもりを感じながらの就寝に、

香もこれまで感じ得なかった安心感や幸福感を噛み締めている。

出来る事なら、撩に包まれながら眠りにつきたい。

ただ、先ほど宣言断言をしてしまった手前、

行動の変更は自分としても簡単には出来ない。



「んー、…まぁ、…今日、くらいは、いっか。」



リンゴジュースが入っていた3つのグラスを洗い終わり、

手をつけられなかったお茶菓子代わりのクッキーにラップをかけ、

とりあえず結論を出す。

やや寂しさはあるが、致し方ないと、

独り寝を決意する。



そして、また明日の朝はどうしたものかと、迷う。

燃えるゴミ自体は少ないのに、

わざわざ有料である区指定の袋を満たさないまま回収に出すのは惜しい。

かといって、ゴミ出しを先送りにすれば、

ならどうして別に寝たのかと、後々つっこまれたら困ることになる。



「わざわざゴミ作るのもバカらしいわよね…。」



客間で一人で寝る正当な理由を作るには、

ゴミを増やして袋を一杯にし、

翌朝ゴミ出しをする口実を作らなければならなくなった。

しかし、本当は一人では寝たくないという、

自分で作り出したよくわからない状況に、

これからの動きが取り辛くなる。



「あーん、どうしよう…。」



両手で顔を覆う香。

本当は明後日が、月2回しかない不燃ゴミの日にあたり、

むしろ切羽詰まっているのはそっちのほうである。

今日より、明日の方が一人で寝て、

ちゃんと起きてゴミ出しをしなければならない日なのだ。



つまりは、今日一緒に寝ない宣言は、明日に合わせて言うべきだったと

後悔するも、今日の大幅寝坊で冷静さを逸していた香は、

怒りにまかせて発言した手前、

客間での就寝を選ばざるを得なくなった。

暫く、難しい顔をして考え中だった香は、

ふと目を開けて、まずは掃除をする場所を作ることにした。



「地下と普段使っていない部屋、片付けておこうかな…。」




行くべき場所のイメージを固め、

夕食の下ごしらえをしてから巡回コースと決める。

が、食前の時間が時間だったものだから、

本来空腹になる頃合いでも、全くお腹が減っていない。



「なにつくろ…。」



メニューが決まらない。

炊飯器の中身はほぼカラになっている。

なんとなくお米を研ぐのが面倒な気分で簡単な食事を選ぶことに。



「焼うどんでもしようかな…。」



キャベツとタマネギの残量を確認して、常温保存食品庫からうどんを探し出し、

とりあえず献立だけ決めておく。



「よし、じゃあゴミ集めだわ。」



キッチンを出た香は、

客間兼自室でタンスの引き出しを開け、他の居住区の合鍵を探す。

「んー、全部の階はムリよね。地下と4階と5階だけ見ておこうな…。」

いつどういう件案で急に使う事になるか分からないこともあり、

とりあえずは、折々に掃除をしている故、

回収できるゴミがあるようには思えなかったが、

念のために巡回をすることに。

倉庫に寄り、ほうきとちりとり、そして紙袋を持ち、玄関を出た香。

この時は、まだ撩の靴はそこにあった。

気に留めず、地下へ向かう階段を降りて行き、射撃場の扉をそっと開けた。

いつもの独特な匂いがくんと鼻をくすぐる。



床を見遣ると、

もう薬莢はきれいに片付いていた。

あれは一般ゴミに出すワケにはいかないもので、

撩がいつのまにか処理をしている。

ボロボロになった的はゴミ箱に入っていた。

中身が見えないように持って来た小さめの紙袋に移し回収する。



銃器の油を拭く時のボロ布もオペレーションルームのゴミ箱に

そこそこ溜まっていた。

「そろそろボロ布も補充しなきゃね…。」

使い古しのタオルやTシャツなどを細かく切る作業をしなければと、

また頭の中のチェックリストに追記する。



「ここはこんなもんかな。」



出来る範囲の床面をホウキではき、

とりあえずは細かなホコリとゴミを集める。

軽く片付け終わると、次なる目的地へ。

防音扉をゆっくりと閉め、また元のルートをたどって階段を昇っていく。

通路を照らす照明も、やや点滅気味で

ここも交換が必要かと、買い物リストに加えるものが増えたと、

頭の中を整理する。



チャリっと合鍵を取り出すと、まずは401の部屋を開けた。

思い出深い場所でもある。

香は、最初にこの部屋に住んでいた。

ブレーカー用に各部屋に常備している踏み台を引っ張り出し、

小さな開き戸を開けると、

メインのスイッチをオンにした。



「もう……、こんなことなら明るいうちに始めればよかったわ。」



そう愚痴をつぶやきながら、

壁際のスイッチを探し、ぱちんと電気を付ける。

中は、間取り以外なにもない。

カーテンがないベランダに続く暗い窓に、自分の姿が映る。

兄を失った直後、悲しむ間もなくここでの生活が始まった。



「そういえば、あの時、…もっこり、してたわよ、ね。」



添い寝をと言いながら、

テントになった掛布団を見た時の驚きと恥ずかしさが、ふと蘇る。

あの時は、ハンマーでなくベッドサイド用の照明で反撃した。

今、思えば『あれ』もこれまでの依頼人と同じように、

沈んだ気持ちを紛らわせるための、

撩なりの配慮であったことに気付いたのは

いつ頃だったか。



「ふふ…、撩ったら…。」



思わずくすくす笑いが出る。

あれから6年以上、次の3月で7周忌となる。

「アニキ…。」

掃除道具を持ったまま、香はトンと壁に寄りかかった。

撩のお陰で深い哀しみや痛みの渦に引きずり込まれることなく、

これまでの時間を重ねることが出来た。

小学1年生が6年生になり卒業するまでと同じ時が流れたのだ。



「ほんと、あっと言う間、よね…。」



思わず回顧に浸りたくなったが、

とりあえずここに来た本来の目的をさっさと終わらせるべく、

床を一通りはきあげ、ベランダの窓を開ける。

コンクリートの床には、風で飛ばされてきた落ち葉や紙切れが散らかっていた。

「あら!結構ゴミが溜まっているじゃない!」

香は、それらかき集め、持ってきたビニール袋に入れていく。

「んー、きっと他の部屋も同じよね。急がなきゃ。」



ベランダから室内に戻ろうとしたその時、

聞き慣れたい相方のまぬけな声が聞こえた。

「ねぇ〜ん、かおりちゃーん、ボクちゃんいつまでこーしてればいいのぉ〜。」

「はぁ?」

ベランダの端に出て見下げると、まだ簀巻きの撩が3階付近で揺れていた。

すでに暗くなっていたので、6階から伸びていたロープにも気付かなかった。

自力で簡単に脱出できるだろうにと、くすりと肩を上げる。

「好きなだけそーしてたらー?」

そう言い残して、またガラス窓をカララと閉める。

久しぶりの居住区巡回に、思いのほかゴミが回収できる未来が見え、

事を急ぐ事にした香。



かつて世話になったこの空間をちらりと見返し、

忘れ物がないかを確認したら、

ふっと小さく息を吐き出し、半ば爽やかな表情で

401を後にした。


*********************
(11)につづく。





完全版21巻の巻末付録では、
2階から5階は、賃貸用住居と明記してありますね。
パーフェクトガイドブックP105で、
2階に3部屋、3階から5階は5部屋、
合計18部屋はあるという設計になっています。
もし家賃収入があったら結構なモンだと思いますが、
他人様を住まわせるワケにはいかないですよね〜。

胡麻さま「還ってきた男」(3)

70000hit企画

お預かり作品「言ノ葉隠れ」胡麻様より


『還ってきた男』(3)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



リョウはアパートに戻った。

香はまだ帰っていないようだった。

「―――やれやれ」

リョウはどさりとソファに身を沈めた。

なんだかむしゃくしゃした気分だった。

いや、原因はもうわかっていた。



「―――そこにいるんだろ、槙村」



宙に言葉を投げかける。



『ああ』



返事がした。と思うと、さきほどのように辺りが薄暗くなった。

リョウの目の前に、槙村が立っていた。

「いったい、いつまで俺につきまとう気だ?」

リョウが不機嫌そうに尋ねる。

『―――もちろん、お前が香の前から消えるまでさ』

あいかわらず不敵に槙村はニヤリと笑う。

「ここは俺のアパートだ。何で俺が出てかなきゃならないんだ」

ムッとしてリョウは言い返した。  

『どうしてもか?』

「ああ、どーしてもだ!」

ケンカ腰でリョウは立ち上がり、

彼の目の前にぼんやり光ながら浮いている槙村としばしにらみ合った。

ピシッ、ピシッと空気が弾けるような音が辺りで起こる。

ラップ現象というやつだ。

そのうちソファやテーブルなどがガタガタと揺れ出した。



「な―――」



思わずリョウがひるむ。

その時、槙村がカッと目を見開いた。

ゴウッという音とともに、突風が起こり、

部屋中のものがその風に巻き込まれたように浮き上がる。

次の瞬間、それらがすべてリョウをめがけて襲いかかった。

「うわぁっ!」

とっさにソファやテーブルなどはよけたが、

置時計や電話などはよけきれず頭に当たった。

しかし次々家具が襲ってくるので痛がってるヒマはリョウにはなかった。

「ちょ、ちょっと待てよ!」

必死でリョウは叫んだ。

「卑怯だぞ、槙村! ちゃんと素手で闘えー!」

『あいにく素手どころか、体がないんだ』

槙村は完全にリョウをおちょくっていた。

空中に浮かんでニヤニヤ笑いながらも、攻撃の手をゆるめない。



リョウは横になったテーブルを盾に、

折れた椅子の脚を手に必死で飛んでくる物に応戦した。

しかしどうにも苦戦の色はかくせない。

「ちくしょー! 槙村、いい加減にしろっ!」

飛んできたサボテンの鉢を叩き落とし、とうとう堪忍袋の尾が切れて、リョウは怒鳴った。

「だいたいお前に俺のことが言えるのか?

―――俺よりお前の方がよっぽど女を不幸にしてるじゃねぇか!」

リョウの怒声に槙村は一瞬ぽかんとした。



『―――何の話だ、いったい……』



「わからないって言うのか?」

リョウはますます腹をたてる。

「だったら教えてやるよ、冴子のことだ! 

―――生きてる間だって香、香っていってろくに相手してやらなかったくせに、

死んで五年も一人ぼっちにして、

その上、この世に戻ってきてもあいかわらず妹の方を最優先にしやがって。

シスコンもいい加減にしやがれ。あいつは今だってお前のこと待ってるんだぞ!」

宙に静止していた家具類がふいに支える力を失い床に落ちた。

リョウは槙村をにらんだまま、疲労と怒りでゼイゼイと肩を揺らしている。



『―――――』



槙村は黙り込んでしまった。

「―――お前がこれから守らなきゃならないのは、

償わなければならないのは……香じゃないだろ、槙村」

精も根も尽き果てて、リョウは床に座りこんだ。

槙村は苦しげな表情を浮かべている。



『リョウ、俺は……』



彼は何かを言いかけたが、口ごもってしまった。

「ん―――?」

リョウは槙村をいぶかしげに見つめた。

しかしリョウの不審に答えるよりも早く、槙村の姿がふいにぼんやりとかすみはじめた。

「お、おい……」

最後の瞬間、申し訳なさそうな目線を投げ掛けながら、

槙村は消えてしまった。突然とり残されて、リョウは茫然とする。



その数秒後、玄関のドアが開いて香が現われた。

「ただいまー。……あらリョウ、帰ってたの?」

雨の中走ってきたのか、濡れた前髪のしずくを払いながら彼女はリビングに入ってきた。

「雨がひどいから今日はビラ配りはかんべんしてあげるわ、リョウ―――」

言いかけて香はゴクリと息を飲んだ。



「な、なによ、これ―――!」



部屋の有様を見て、一声上げると彼女は絶句してしまった。

窓ガラスにはひびが入り、ソファやテーブル、テレビはひっくり返り、

戸棚や本棚の中身は床にぶちまけられ、

鉢植えは粉々に砕け、カーペットはめくれ上がり

……これでは香でなくとも絶句せざるをえないだろう。



「いやぁ、香、これには訳が……」

とにかく香の気を落ち着かさせようと、リョウが猫撫で声で言い訳を試みる。

香はもちろん聞いていない。

「あ、あんたって男は……。

ひょっとしてこれは朝のケンカやさっきの言い争いに対する、あたしへの嫌がらせ……?」

眉をぴくぴくと逆立て、目を三角にして、低い声で香はリョウに問いかけた。

「ち、ちがう、ちがう」

リョウは真っ青になって頭をぷるぷると振った。

「俺じゃない。これをやったのは……槙村なんだ」

「兄貴がぁー? 何言ってんのよ、あんた」

香はますます腹を立てていく。

「ホ、ホントなんだってば。

槙村は霊界で修業を積んで守護霊になったんだ。

そしてお前に近づく奴を抹殺するためにこの世に戻ってきたんだよ。

お前だって、今朝夢に見たって言ってたじゃないか」

助かりたい一心でリョウは早口で言い立てた。

「何をバカな……。ウソはもっと上手に言ったら?」

香はまったく相手にしていない。

「ホントのホントなんだよー! おい、槙村! 頼むから出てきて証明してくれー!」

側にいるであろう槙村に向って呼び掛ける。

しかし槙村はウンともスンとも返事をしなかった。

「そんなことでごまかそうったって、ムダよ」

香はフンと鼻で笑う。

「さあ、お仕置きしましょうねぇ。ハンマーとすまきとどっちがいいかなー?」

「ぎぇー、そ、それだけは。あ、そうだ!」

リョウはポンと手を打った。

「ホントに槙村はここにいるんだ。今それを証明してやるよ、香」

「へぇー、どうやって?」

はなから信じていない香はバカにしきった調子で相づちを打った。

「見てろよ……」

リョウがふいに香の腕をつかみ引き寄せた。

「え……?」

ふいをつかれて、香はすっぽりとリョウの腕の中におさまってしまった。

(極度のシスコンの槙村のことだ。こうでもすりゃ、逆上して出てくるにきまってる)

我ながらうまい考えと、リョウはほくそ笑む。



「…………」



が、しかし。

十秒待っても、20秒待っても槙村は現われなかった。

「りょ、リョウ……」

香が腕の中でもぞもぞと動く。

突然抱き締められ、彼女は耳まで真っ赤になってしまっている。

「あ、あれ? おかしいな……」

あきらかに気まずい雰囲気に、リョウはすっかり動揺してしまった。

(ちょ、ちょっと刺激が弱すぎたか。よーし、こうなったら……)

「……香!」

耳元で名を呼ばれ、香はびっくりして顔を上げる。リョウはその顎に指をかけた。

(え……ええ―――!)

あきらかにキスの体勢だったので、香は驚きながらも反射的に目をつむった。

リョウは香に顔を近づけ、そのままの姿勢で数秒待った。

しかし、一向に槙村は現われる気配をみせなかった。

(お、おかしいな。ここまでやってるのに、なんであいつは出てこないんだ?)

リョウはますます動揺した。



「リョウ……?」



やがて待ちくたびれて香が目を開けた。

両耳を赤く染めて、何が何やらまったくわからない様子だったが、

彼女はうっとりとした信頼と愛情に満ちた目でリョウを見つめる。

ここへきて、リョウはやっと今の状況を理解した。

槙村がその姿を見せない以上、

香にすればリョウが急に自分に迫ってきたとしか思えないだろう。

引くに引けない体勢に、リョウは自ら墓穴を掘ったことを知った。



(槙村の奴、まさか本当はこうなることがねらいで…)



今にして思えば、リョウと香を引き離すことを目的としていたわりに、

槙村のやったことには奇妙な点が多かったような気がする。

槙村を動かしていたのは、決して一つだけの目的ではなく……。

しかしリョウにはそんなことを悠長に考えているヒマはなかった。

香が、彼の腕の中から一心に彼を見つめている。

こんな目をされたら、今のは間違いでしたとはもう言えない。

しかも、こんなふうに見つめられていると、

まずいことに、だんだん香が愛しく思えてきた。



(こうなったら、もう……)



とうとうリョウは観念した。

どうやら、兄妹二人ががりの甘い罠に完全にひっかかってしまったようだ……。






霧の中に、彼女は立っていた。

手を伸ばせば肘から先すら見えなくなりそうな濃い霧だけが辺りを支配している。

(また、あの夢だわ)

彼女はうんざりとした。

もういったい何度こんな霧の中にいる夢を見たことだろう。

仕事がつまったときや、雨の日はきまってこの夢を見る。

行くことも退くこともかなわぬ霧の中で、彼女は途方にくれて立ちつくす。

ひどく気だるくて、胸苦しい思いが胸の中にもたちこめてきて、

彼女はますます途方にくれた。



(―――いったい、どうしたの? どうなってしまうの、私……)



彼女は漠然と自問したが、こんなふうに迷ったり、

途方にくれることに彼女は慣れていなかったのだ。

彼女は目をこらし、霧を見つめた。

誰かに来てほしかった。

その人さえ来てくれれば、こんな霧など消えてしまうはずだと彼女は思っていた。

彼女は待った。

待つことがこんな不安なことだと知らなかった。

ふと、何かの気配を感じて、彼女は背後を振り返った。

誰かが、霧を押し分けるようにして、ゆっくりと彼女に近づいてくる。



「あ……」



彼女は小さな声をあげた。

その人物が誰なのか、彼女にはすぐわかった。



『待たせたな―――冴子』



それは槙村だった。

彼はにっこりと彼女に笑いかけた。

彼女――冴子は言葉を失ったように彼を見つめた。

やがてその顔が、泣きだす寸前の子供のそれのようにゆがむ。



「待ってたのよ、……私、ずっと待ってた……」



かすれた声で彼女は言い、心の声がそれを繰り返した。

(そうよ……。私がずっと待ってたのは、この人だったんだわ)

『―――すまん』

槙村は本当にすまなさそうだった。

『すぐ来るつもりだったんだが、ちょっと寄り道をしてたら、すっかり遅くなってしまった』

そう言って、ボリボリと頭をかく。

「寄り道って、どーせ香さんのところなんでしょ?」

女の勘で冴子はピタリと当てた。

「あなたはいつだって、私のことなんて後回しなのよ」

すねたようにそっぽを向く。しかし一方では、

(―――あらあら、私にこんなかわいいところがあったなんて)

と、内心自分の態度にびっくりしていた。

『悪かった、本当に』

槙村は手を合わせながら謝った。

それを見て冴子は機嫌を直した。

「もういいわ。―――でも、これからは私のことも考えてくれなきゃいやよ」

『わかってるよ』

「もうどこへも行かない?」

『ああ』

「これからは、ずっと一緒ね?」

『ああ』

槙村はほほえんで、冴子をそっと抱き寄せた。

『―――これからは、ずっと一緒だ……』

冴子はにっこりと笑った。
 
不安も憂欝ももう彼女の中から消えていた。

あんなに深かった霧が、二人のまわりからいつのまにか消えていったように―――。






カラン、カラン……

「いらっしゃいま……あら、冴子さんじゃない」

カウンターの中から美樹が、ドアベルを鳴らしながら入ってきた冴子に笑いかけた。

翌朝、ここはもちろん美樹の店『CATS・AYE』である。

「珍しいわね、こんな時間に」

「ええ、ちょっとコーヒーが飲みたくなったの」

冴子はにこやかに言って、カウンターの席に着いた。

「どうしたの? なんだか機嫌よさそうね」

戸棚からカップを取り出しながら、美樹は冴子の表情をしげしげと観察した。

「そうかしら」

冴子は照れたように微笑む。

美樹の言った通り、冴子はゆったりとして、ひどく満ち足りた表情をしていた。

今日の彼女からは、いつものりりしいけれど、

人を寄せつけようとしないあの磨ぎすまされた印象が消えている。

代わりに満たされた優しい雰囲気が漂い、

それがもともと人並みはずれた美貌にやわらかな輪郭を与えているようだった。



「何かいいことでもあったの?」

美樹が意味ありげに尋ねる。

「そうね、あったような、ないような……」

あいまいに冴子が答える。

「あら、秘密なの?」

「ううん、そうじゃなくて……なんだかすごくいい夢を見たらしいんだけど、

目が覚めたらどんな夢だったのか憶えてなかったの」

冴子は肩をすくめ、けれどやっぱり幸せそうに微笑んだ。

「ふーん。まぁ、そんなこともあるかもしれないわね。

……それにしても、冴子さんをこんなふうに幸せそうに、

チャーミングにしてしまう夢ってどんな夢なのかしらね」

美樹は不思議そうにため息をつき、そして何やら目で笑いながら、

「みんな、どうしちゃったのかしらねー。春でもないのに」

「みんなって?」

冴子がきょとんとする。

「あれよ、あれ」

美樹がちょいちょいと後ろを指差した。

冴子が振り返ると、隅のテーブル席にリョウと香が向い合って座っていた。

「ほら、リョウ。アーンして」

「バ、バカ。いいよ、自分で食うから」

「遠慮しなくていいのにィ」

モーニングセットのサンドイッチを前に、

リョウの世話をやく香と、テレて真っ赤になっているリョウの姿がそこにあった。

リョウは困りきっているが、香は冴子以上に幸せそうで、満面に笑みを浮かべている。



「ど、どうしたの、あれ」

見慣れない光景に、冴子は目をパチクリさせた。

「さあ? なんだか急に仲良くなっちゃったみたいよ、あの二人」

美樹がクスクスと笑う。

「はー、とうとうリョウも年貢の納め時ってわけね」

あてられたように冴子はしみじみと言った。

「これでうちも物を壊されなくなるから助かるわ」

美樹は心からホッとしてるようだった。

「美樹さーん! コーヒーまだぁ?」

香が元気に手を上げた。

「はいはい、今持っていくわ」

美樹は並べたカップにあわててコーヒーを注ぐと、

そのうち二つをリョウたちのところに運んだ。

そして二人の邪魔をしないようにとっととカウンターに戻ってきた。

「あら」

戻ってきた美樹が小さく声を上げた。

「―――どうしたの?」

冴子がカウンターの中をのぞきこむ。

「いえ、あの……」

美樹は当惑したように顔を上げた。

「今、冴羽さんと香さんと冴子さんの、三人分のコーヒーを入れたつもりだったんだけど

……いつのまにかカップが四つになってたの。

変ね、うっかりして一つ多めに出しちゃったのかしら」

手元に残った二人分のカップに美樹は首をひねった。

冴子はしばらく茫然としていたが、

ふと無意識のうちに自分の隣の誰も座っていない席に目をやった。

やがて彼女はくすっと不思議な微笑を浮かべた。



「たまにはそういうこともあるわよ。

……ねえ、よかったらそのコーヒー、二つとも私にくれない?」

「え? 冴子さん、二杯も飲むの?」

美樹がびっくりして聞き返す。

後ろの席のリョウもこのやりとりに気が付いて首をのばしてこちらを見ている。

「飲まないけど……その、隣に置いておきたいのよ」

自分でも奇妙だと思うこの申し出に、冴子は笑ってごまかした。

美樹はますます首をひねったが、

「まぁ、冴子さんがそう言うなら……」

一つを冴子の前に、そしてもう一つのコーヒーをその隣の無人の席に置く。



「ありがとう」

冴子が礼を言った。

「こら、リョウ、どこ見てんの」

「いてっ」

じっと冴子の奇妙な言動を不思議な眼差しで見ていたリョウの顔を、

香が無理矢理つかんで自分の方に戻す。

ちらりとその様子を見て、それから冴子は再び隣の席に視線を落とす。

飲み手のいないコーヒーカップから湯気のたちのぼるのを眺めながら、

まるでそこに恋人でも座っているかのように、

彼女は至福の思いに目を細めるのだった―――。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
END


1993年7月執筆作品
胡麻様より拝受





省略されたあの時間、
これまた妄想ネタにつながりそうです。

21-09 Wrapping In A Quilt

第21部 Invasion Of A Novelist

奥多摩湖畔から11日目  


(9)Wrapping In A Quilt ****************************************** 5026文字くらい



「え?」


唯香の声が廊下から部屋に届いたとき、

香は客間のベッドでうつ伏せになっていた。

ぱちっと目を開けて、慌てて起き上がる。

「も、もう帰っちゃうの?」

スリッパをつっかけ、部屋の外に出て廊下を進むも、

もう唯香の姿は見えなかった。

階下からちょうどパタンと玄関の扉が閉まる音が耳に届く。



「……ふぅ。」



小さく息を吐く。

あれから、撩に言われた通り洗面所で顔を洗い、額にかいた汗を流して、

冷たい水をフェイスタオルに浸らせ軽く絞り、

まだ赤いままの両頬にじゅう〜っとあてがった。

蒸発する湯気に、確かに自分ではもうあの場は持たないと、

撩に代わってもらったことが正解だったと安堵する。

キッチンで水を一口飲んでから

とりあえず自分のベッドで体温が下がるのを待っていた次第。




「一体2人で何を話したのかしら…。」




グラスを片付けようとリビングの扉を開けた。

「撩?」

ソファーの長辺側で

コーナーを頭にして仰向けになって転がっている相方を発見する。

そっと近付くと目は閉じている。

「こ、これ片付けちゃうわね…。」

それぞれリンゴジュースが中途半端に残っている3つのグラスをトレーに移し、

軽く台拭きでガラステーブルを拭く香。

撩は薄く目を開けると、ふーと細く肺から呼気を出した。



「まるで嵐の通過、だな…。」

「は?」



ぼそっと突然聞こえた撩のつぶやきに、

トレーを持って立ち上がった香の動きが止まる。

「……あんた、唯香ちゃんと何話したの?」

「なぁーんもぉ。」

また目をつぶった撩は、頭の下で組んだ指をそのままに、

はぁとまた一息こぼす。



香は、少し迷ってとりあえずキッチンに持っていこうとしたグラスセットを

またテーブルに戻し、ソファーの短辺側にゆっくりと腰を下ろした。

ぎしっと軋む音に、この家具もずいぶん長いこと頑張っているわと、

クッション下の材の劣化が気にかかるも、

それよりも、

自分が席を外している間に、どんなやりとりがあったのか、

ちゃんと聞いておかなければと、撩に再度尋ねた。




「唯香ちゃん、簡単には帰らないと思ってたけど…。」

「とりあえず黙秘しといた。」

「は?黙秘?」

「んで、勝手に納得して帰っちゃったみたいよぉ〜。」

「う、うそ!ホントにあんたなんにも喋ってないの?」

「言えるかよ。」

「……それで唯香ちゃんがすんなり帰るなんて考えらんない。」

「んじゃなにかぁ?おまぁは、正直に言った方が良かったっつーの?」

むくっと上半身を起き上がらせた撩は、

そのままソファーの角に腰をスライドさせ、

ぎょっとしている香の腕と腰を素早く確保すると、

そのままどさりと自分を背もたれにして

後ろから香を抱き込んでしまった。

香がそんなワケないじゃないと、言い出す前を押さえてのほんの数秒間のこと。



「ちょ、ちょっと!いきなりなにすんのよっ!」

あまりにも瞬発的な動きで、あっという間に拘束され、

また照れと恥ずかしさが香の中で膨張する。

撩は、今日のゴミ出しの失敗で機嫌を損ねてしまった相棒と

いかにして今晩一緒に寝るかを考えていたところでの唯香の登場だったので、

当初の目的を実行に移す事にした。



「唯香にこーゆーところ見せつけておいた方がよかったか?」



細い腰に背後から両腕を絡め、

香の耳の後ろでそう低い小さな声で囁く撩。

「っ!」

それだけで心拍が狂いそうになる。

「な、なにばばばかなこと、いいいいってんのよっ!」

撩の右足は床に付き、

左足は短辺側の背もたれに密着させつつ香の左半身とぴったり触れている。

香の上半身は完全に撩の腕の中に納まり、

両足はソファーの上に投げ出されているスタイル。

撩はコーナーに深く座り直し、より香を自分に引き寄せた。

鼻先にくすぐる茶色いくせ毛の感触を楽しみながら、

すっと目を閉じる。



「……今日は、すまなかった。」

「は?」

さっきから「は?」の連発。

突然の謝罪に、香は一体なんのことだと混乱する。

「え?な、何が?」

昼過ぎのやりとりをもうこの女は忘れてしまったのかと、

それならそれで有り難いが、違うタイミングで思い出されてもなんだしと、

ここは理由を伝えることにした。



「ゴミ捨て。」

「!!!」

香の体がぴくんと動く。

「そうよっ!!!撩!だめっ!やっぱりあた」

くだんの怒りを思い出し、じたばたと抵抗を始めた香をやんわりと押さえ、

そのまま左指で顎を捉えて、肩越しに唇を塞いで黙らせる。

いきなりの深いキス。

「んんんーっ。」

思わず香は撩の太い腕に手が伸びて指に力が入ってしまう。

かすかに残る甘いリンゴジュースの味に、また脳が溶かされそうになる。

自分の顎に添えられている指に少し圧がかかったかと思ったら、

口を合わせたままに体をくるんと回転させられ、

今度は対面で吸い付かれてしまう。

後ろ頭に指を埋め、位置を固定させ、右腕も香の背中に回される。

両足も絡ませられ、逃げ道は完全に遮断されてしまった。

全身がほてりつつも、

まだ香から腕も回してこなければ舌も逃げてばかりで、

撩は、これ以上はハンマーが落ちるなと、

作戦を若干変更することに。

下唇を優しく挟み、ちゅっと吸引してからふっと離れる。



ずっと強く目を閉じていた香は、目尻を濡らしたまま

こっちのほうが嵐じゃないと思いながら、

撩の肩にぱたりと額を落とした。




「……きゅ、急に、…なに、すんのよ…。」

優しく髪の毛を撫でられる感触にきゅんきゅんしながら、

なんとか喋ろうとする香。

「んー?スキンシップ♡」

「……はぁ?」

「これまで、んなこと出来んかったしなぁ〜。」



香は疑問符が浮かぶ。

昨日もココでこんな感じのことしたんじゃなかったかと、

一体いつからのことを指しているのか、

さかのぼる時期が分からないでいる。

一方、撩は目を閉じたまま、

腰にからませた腕と、後頭にまわした手の平にじんわりと力を入れ直す。

触れたくても触れられず、

触れられる理由をこじつけても、より抱えているモノが体積を増すばかりで、

心を決められずにいたこの数年が像を結ぶ。



香が意識のある状態では、それこそカウントできるほどにしか、

お互いが触れる機会などなかったのだ。

ファルコンが美樹とのことを伝えた時、

セスナが突っ込んで来た時、

真柴由加里が去った時、

シンデレラデートの時、

唯香が連れ去られた時、

マリー、ソニア、海原が来た時、

双子の姉妹の部屋に泊まった時と、

両手足の指も埋まらない数程のその思い出が、

撩の胸をくっと締めた。



「……撩?」



香は自分を抱き込んだまま穏やかに沈黙している相棒の様子を見遣ろうと、

少し体を捩るも、

まだ動くなと言わんばかりにまたぎゅっと腕に力が込められる。



まるで携帯したくなる抱っこちゃん人形。

きっと泣きわめく赤子が、お気に入りのおもちゃを渡され

安心して泣き止むのは、こんな感じなのかと、

知り得もしない疑似的な感覚が被ってくる。



「……ね、ねぇ、唯香ちゃんと何かあったの?」



唐突に撩を心配してくる香。

思わずくすりと肩が上がる。

「べっつにぃ。」

今、撩はこの抱き心地を夜も得られるように持っていくには

どうしたらいいかという自己中心的な思考に偏っている。

そこに、何かあったのではと不安になっている相棒とのギャップがまた、

おかしくなりクスクスと鼻で笑ってしまった。



「ちょっとぉ〜、何がおかしいのよっ。」

「んー?」

上半身を持ち上げようとした香を、またくいっと抱きしめる撩。

だんだんといつもの恥ずかしさと照れくささと嬉しさが三つ編み状態。

密着する服越しの体温に、頬の下から感じる心音に、

香は、はぁと熱い息を吐き出す。



「……あとは、何をすればいいんだ?」

「え?」

目がパチっと開く。

「食器は片付けておいた。シーツも俺の部屋の向かいにしまっといた。

乾燥機も動かしてある。」

「は?」

胸板に頬を押し付けられたまま、頭の上から降ってくるよく分からない台詞に、

香は何のことだかさっぱり理解ができない。



「りょ、撩?何?一体どういうこと?」

顔を再度あげようとしたが、またぱふっとTシャツに押し付けられた。

「ぅぷっ。」

まるで俺の今の顔を見るな攻撃。

「はっきり言って、おまぁが客間で寝たら、夜這いを止められない自信は100%だ。」

「へ?」

「……だが、お前が嫌がることは俺もしたくないしぃ〜。」

撩は鼻からすっと空気を吸った。

「とりあえず、今日おまぁが午前中できなかったことを、代わりにしてやっかと、

ボクちゃん、ちょぉ〜っとだけ頑張ってみちゃったんだけどぉ〜。」

「はぁ?」

口調の切り替わりに、ますます状況が飲み込めない。

また自分に絡んでいる腕がより密着してきた。

「あとは、何をしたら撩ちゃんの部屋に来てくれるのかなぁ〜と思ってぇ〜。」

そう言いながら香の髪に顎の骨をこしこしと擦り寄せる。



香は、真面目に心配した己を小さく恨む。

このオトコは、今晩一緒に寝ることしか考えてないのかと、

一瞬だけ腹が立つも、

自分が帰宅した時、キッチンでヒゲもそらずに寝ぐせも直さずに、

本来だったら自分がすべき雑多な仕事を

自ら進んで片付けてくれた姿を思い出す。

このヒト、一応世界一のスイーパーよね、と

そんなオトコがエプロンをつけて何をしていたのかと

想像しただけで香は思わず、ぷっと吹き出してしまった。




「な、なんだぁ?」

腕の中でくくと肩を小刻みに揺らすパートーナーを見下ろすも、

前髪から下の表情は伺えない。

指先を丸めて口元を押さえる様は、必死に溢れる物を塞(せ)き止める堰がわり。

目尻に涙も溜まってきた。



滑稽すぎる。

あの日から、やっと二ケタの日取りを重ねられたばかりだというのに、

唐突に切り替わった相棒の態度は、あまりにも激し過ぎる落差で、

もはやショックを通り過ぎておかしさで笑いしか出ない。

声を詰まらせて小刻みに震える香は、

大笑いしそうになるのを必死で止めている。



「おいおい、なんだよ。」

眉があがる撩。

「…っも、…っおかしくって…。」

くくくっとまだ爆発を耐えながらなんとか返事をする。

「ああ?」



しかし、そこで香ははっと思った。

これで自分が折れて今晩も一緒に寝ることになったら、

かなりの確率でまたゴミを出せなかったり、それだけでなく

午前中を棒に振ってしまう可能性もゼロではない。

むしろ数値としてはかなり高いと想定される。

撩の努力はくすぐったいくらい嬉しいが

簡単にゴーサインを出すわけにはいかない。

そう結論付けた香、すーと息を吸って肩の力を抜く。



「……だめ。」



ぴくりとして、腕の中の香を見下ろす撩。

香は、耳が赤くなったまま、小声で続ける。

「起きれないと、本当に困るの…。」

「起きれればいいんだろ?」

「だから、一緒に寝ると起きれないんだってばっ。」

頬を染めながら、これまでの目覚めを振り返る。

「『俺が起こしてやる』ってのはもう信じないからっ。目覚ましも止められちゃうし!」

「ん〜、じゃあ、夜がダメなら今から仲良くしよっかっ!」

くいっと両手で頬を挟まれ、んちゅーとタコちゅう状態の厚ぼったい唇が接近してきた。

ぎょっと目を見開く香。

「お、己は何考えとんのじゃあああ!」

撩は目の前に舞った掛け布団に、次の自分の姿が容易に想像出来た。

瞬時に、しゅるるるるっと巻かれるロープに、

この感覚も超久しぶり〜と、嬉しさを感じていることを

とりあえずバレないようにする。



「こ、この、あんぽんちんの、おたんちんの、すっとこどっこいの、ばかちんがっ!」



貶(けな)し言葉オンパレードの文言を投げつけ、

香はそのまま簀巻きに仕上がった撩をベランダから弧を描かせ放り投げた。

「ひょえぇぇぇっっ〜。」

ビンと張ったロープが手すりにすれてギシギシと鳴く。

香自身も、一体いつぶりくらいかしら?と

ご無沙汰していた技に、ある種の懐かしさも沸き上がる。

顔を照れと怒りで赤らめたまま、パンパンと手をはたき、下の様子も確認もせず、

テーブルの上のトレーを持ち、

ぷいっとリビングの扉に向かってどすどすと歩く香。

バタン!と閉まる音が撩の耳に入ってくる。



「やっぱこうでなきゃな…。」



簀巻きにされたまま、表情は穏やかに目を閉じ真面目モード。

これまでと変わらぬやりとりがこうして出来る事を確認できたことに、

どこかしら深い安心感を覚える。

ぎっ、ぎっと揺れるロープが静まった時、

対面のビルから聞き慣れた声がした。



「……リョウ、お前何やらかしたんだ?」

「うっせ、ほっとけっちゅーの!」

ぷいっと顔を背ける撩。

出窓に腰をかけて窓を開ける堕天使。



夕刻の茜色の陽が互いのビルの間を柔らかく射していた。


***********************************
(10)へつづく。






このサイトでは、初のスマキ撩でございます。
ぶら下がって久しぶりの感覚に浸る撩ちんは、
神村愛子ちゃんの回の、事務所の机に縛られてながら、
真面目モードの顔をしているコマを代用して戴ければと…。

胡麻さま「還ってきた男」(2)

70000hit企画

お預かり作品「言ノ葉隠れ」胡麻様より


『還ってきた男』(2)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

結局、美樹に店を追い出され、

リョウは行くあてもなく街をぶらぶらと歩くはめになった。

「なんで俺がこんな目に……」

ぶつぶつ言いながら、ふと顔を上げると、香がこちらに向って歩いてくるのが見えた。

「あ、リョウ―――!」

香はリョウに気づいてかけよってきた。

リョウは槙村の捨てゼリフを思い出して後退りかけたが、

まさか香がいる前では何もできないだろうと思い直し、その場に踏みとどまった。

「やっぱり、こんな所で油を売ってたのね」

まだ朝食の時のことを怒っているらしく、香はあまり機嫌がよくない。

「一日中ナンパする元気を、十分の一でいいから仕事に回してよね」

「あー、うるさいな、お前は」

リョウはうんざりして、両耳を手でふさいだ。

「もぉー。あ……、そうだ」

怒ってもしょうがないと思ったのか、香は話題を変えた。

「さっき、歌舞伎町で事故があったんだって? 消防車やパトカーで道がいっぱいだったのよ」

「あー、あれね。ジャンキー野郎が勝手に事故ったのさ。

死人もいないし、たいしたことないさ」

さらりとリョウが言うと、香は目を丸くした。

「なんで、あんたがそんなこと知ってるの?」

「え? いや、それは……」

リョウは口ごもる。

「まさか……あんた、また何かやったんじゃないでしょうね?」

疑いの目で香はリョウをのぞきこむ。

「俺は何もしてねーよ。あれはお前の兄貴が……」

「兄貴?」

聞きとがめられて、リョウはハッと口をつぐんだ。

「兄貴がどうかしたの?」

「い、いや、なんでもない」




まさか槙村が幽霊になって現われて、

霊力やらの妙な力で車を操ってリョウを轢き殺そうとした、とは言えない。

言ったところで信じてもらえないだろうし、

それどころか兄貴を侮辱したとか言って香にぶっとばされかねない。

とにかくリョウは話を変えようと、別の話題を必死で考えた。

その時、天の助けか(?)、

彼らがいる歩道の通りを挟んだ向う側から銃声と悲鳴が同時に聞こえてきた。

「え、―――何?」

リョウも香もとっさに銃声が聞こえてきた方に視線を走らせた。

そこには通りに面した小さなコンビニエンス・ストアがあったが、

その中からスキー帽で覆面をして両手にそれぞれ銃と袋をもった男が

転がるように飛び出してきた。

「ご、強盗よ、リョウ!」

香がリョウの腕を引っぱった。

「ああ、そうみたいだな」

リョウは平然としている。強盗は店内に向って、威嚇のためかもう一回発砲し、

それから店の前に止まっている車に乗り込もうとした。

運転席にはこれも覆面した仲間らしい男が乗っている。



「リョウ! 逃げちゃうわよ!」

すっかり興奮して香が叫ぶ。

「心配いらないよ」

リョウは対岸の火事でも見るようにのんびりと見物している。

「だって、このままじゃ……」

香が言い終わらないうちに、

サイレンが四方八方から聞こえてきて、ものすごい勢いでパトカーが到着し、

犯人たちの車を取り囲んでしまった。



「な? 最近のコンビニの防犯システムは警察に直結してるからな。

こういう小物を捕らえることに関しちゃ、日本の警察って優秀だよな」

リョウは感慨深げにうなずいた。

そうしている間にも、犯人たちは逃げ場を失い、車を飛び出し、

銃を手にじりじりと店の方に後退していく。

しかしパトカーから出てきた警官の数からしても捕まるのは時間の問題と思われた。

先の見えたドラマを見るようにつまらなそうにしていたリョウだが、

警官たちが犯人の銃を気にしてか、

なかなかその範囲網を縮めようとしないのを見て、眉をしかめた。

「まずいな。早くしないと、あいつら店に戻って、人質をとってたて篭っちまうぞ」

その手が無意識のうちにコートの内側の銃に触れかけた時―――



『―――香に近づくなと言ったはずだぞ、リョウ』



耳元であの声がした。

しかもいっそう低く、怒りを押し殺したような声だった。

「―――!」

リョウがぎくりとするよりも早く、

まるで巨大な見えない手がチェスの駒をつまんでひねりでもしたかのように、

通りの向うで彼らに背を向けていた強盗の一人が、

銃をかまえたそのままの姿勢でくるりとこちらを向いた。

そして、その手の中の銃が、まっすぐリョウの方へ向かって火を吹いた。

「―――げっ!」

「リョウ―――!」

銃声に香の悲鳴が重なる。

リョウは反射的に体を後ろに倒すことで、紙一重で弾丸をよけた。

弾丸は彼の背後にあったブティックのショーウインドーのガラスをぶち抜き、

小さな穴とその回りにヒビで放射状の見事な大輪の花を描いた。



「ふ―――」


ゆっくりとリョウは地面から起き上がる。

「りょ、リョウ、大丈夫なの?」

香がリョウにかけよる。

「ばーか。俺が流れ弾なんかに当たるかよ」

強がって答えたものの、さすがに背中に冷汗が流れるのを禁じえない。

「流れ弾って……なんだかいきなりリョウを狙って撃ってきた気がするけど……」



香が不審に思うのも当然な、不自然な発砲だった。

警官を撃つならともかく、通りの向うのやじ馬を撃つなど。

その上、誰よりも撃った犯人自身がきょとんとした顔をして虚脱している。

自分が今何をしたのかわかっていない様子だ。

その隙に、警官たちが束になって飛びかかり、

犯人たちはあっという間に捕まってしまった。

「あ、捕まっちゃった」

香は狐につままれたような顔をしている。

ただ一人、犯人たちの間抜けな行動の理由を知っているリョウはげっそりした。

(今のは……やっぱり、槙村の仕業だろうな……。

つまり香が側にいても容赦しない、てことか)

槙村がリョウと香が一緒にいるのを見て、

さきほどのリョウへの宣戦布告を実行に移したことは明らかだった。



「……どうやら、本気らしいな」



香が護送される犯人たちにすっかり気をとられているので、

リョウはこっそりとつぶやいた。

『―――そういうことだ』

不敵でふてぶてしい返事かどこからか返ってきて、リョウをさらにうんざりさせた。

「リョウ? ねぇ、リョウってば!」

香がリョウのコートの裾をぐいぐいひっぱった。

「あれ、冴子さんじゃない?」

警官とやじ馬でごったがえすコンビニ前に、

少し遅れてやってきたパトカーからすらりとした女性が降りたつのを見て香が言った。

パトカーから出てきたのは確かに警視庁の野上冴子だった。

白いブラウスに足にぴったりとした紺のロングタイトというシンプルないでたちではあっても、

スタイルのいい彼女はどこにいても際立って視界に飛び込んでくる。

現場の警官たちと少し立ち話すると、

冴子はくるりとこちらを向き、通り越しにリョウと香の姿を認めた。

「あ、こっちに来る」

ひょいひょいと車をよけながら、冴子は道を渡ってくると、

「はーい、お二人さん」

いつもの調子でにっこりと笑った。

「どうしたの? たかがコンビニ強盗くらいで冴子さんが顔を出すなんて」

香が不思議そうに尋ねる。

「ああ、たまたま歌舞伎町付近にいたもんで、ついでにね。知ってる?

一時間ほど前、歌舞伎町の通りで事故があったって……」

「知ってるけど……」

「あの事故を起こした奴がね、わたしがずっと追ってた麻薬の売人だったの。

まぁ、本人も薬やってて、その幻覚症状であんな事故起こしたみたいだけど、

焼けた車から売り物用の覚醒剤も大量に出てきたし、

おかげで現行犯で逮捕できたわ。あとはあの男をしめ上げて、ルートとメンバーを吐かせるだけ」

冴子はにこにこして言ったが、ふとリョウを見て、

「あら、どうしたの、リョウ。さえない顔しちゃって」

「さっき強盗の流れ弾が飛んできて、危うく死にかけたのよ」

代わりに香が説明する。

「それは災難だったわねぇ。

……今そこで話を聞いてきたけど、

犯人がやじ馬に発砲して隙ができたおかげでとり押さえられたって言ってたわ。

よかったわよねぇ、店内に戻られて人質でもとられたら、

こんなに簡単に逮捕できなかったでしょうし」

「なーにがよかったんだか……」

のほほんとしている香と冴子に、

やり場のない怒りを感じてリョウはボヤいた。そしてキッと香に向き直る。

「おい、香! お前もう帰れ」

「えー? なによ、いきなり」

香がムッとする。

「わかった。あたしを追い返して、冴子さんと二人っきりになろうっていうつもりね。

そうはいかないわよ」

「バカ、違うよ。―――お前といると俺の生命が……あっ、いや、そうじゃなくて、

とにかく、俺から離れろ」

「なんですってー」

火に油をそそがれ、香は猛然と怒りだした。

「それって、あたしが邪魔ってこと? あたしが何したっていうのよ! 

だいだいあんた、一体何様のつもりー?」

茫然とする冴子の前で二人は言い争いを始めた。

「―――もういいわよ、リョウのバカ!」

結局最後には、いつも通り香が力いっぱいリョウを張り倒し、大股で歩き去ってしまった。



「ふ――」

顔にあざをこしらえながらも、ひとまずリョウはホッとした。

「なぁに? 香さんが側にいたらまずいことでもあるの?」

冴子があきれたように言った。

「ああ、ちょっとばかし生命の危険がね…」

リョウはうわの空で答え、それからふと思いついたように、

「そうだ。冴子、お前、時間あるか?」

「まあ、少しくらいなら……」

「そうか。じゃぁ、ちょっと話があるんだ」

リョウは冴子を近くの喫茶店に引っ張りこんだ。

「何よ、話って」

隅っこの席に着くと、冴子は目をぱちくりさせた。

「いや、その……」

リョウは言いにくそうに口を開く。

「お前さ、その……霊媒師に知り合い……いないか?」

「はぁ?」

「ほら、あれだよ。幽霊だろうが悪霊だろうが、経でもあげてパパーッと払ってくれるヤツ……」

「知ってるわよ、それぐらい。でも、なんであなたにその霊媒師が必要なの?」

「いや、だから、その……」

リョウは困りきって頭をかいた。

何か作り話をでっちあげようかとも思ったが、

香ならともかく冴子には通用しそうにないことはわかっていた。

「実は……」

しかし笑われることを覚悟で、

今朝からの出来事を説明しようと口を開きかけたその時、

突然、ザバーッと大量の水が頭上から彼を襲った。

「キャー! すいません、手が勝手に……」

ウェイトレスが持ってきた水をお盆ごとひっくり返し、それがリョウを直撃したのだ。



「…………」



大きくため息をつくと、リョウはむっつりとして水の流れ落ちる前髪をかき上げた。

「あらあら、今日はついてないわねぇ」

冴子は笑うのを必死でこらえている。

(ま、槙村のヤロー……)

ウェイトレスが持ってきたタオルで頭を拭きながら、

リョウは今のも槙村の仕業だと確信していた。

「えーと、何の話だったかしら?」

今の騒ぎで話の見えなくなった冴子が尋ねる。

「……いや、もう、いいんだ……」

あきらめたようにリョウは言った。

「もう、なんなのよー」

今度は冴子が怒りだした。

「人を呼び止めておいて、しかも香さんをあんなふうに追い返したくせに、何考えてるのよ。

あなた、少し勝手すぎるんじゃない?」

「―――え?」

「いくら何でも、さっきのあんまりだって言ってるのよ。

少しは香さんの身にもなってあげなさい。

彼女、あんなにあなたに尽くしてるのに、あなたの身勝手に振り回されて、かわいそうじゃない」

「お、おい……」

どうも話が妙な方向になってきた。

なんだか朝からずっとこんなことを言われているような気がする。

「関係ないだろ、そんなこと」

なんとか話ごまかそうと試みたが、

「そうよ、私には関係ないわよ。―――でもあなたたちを見てるといらいらするわ」

どうも火に油をそそいだようだ。冴子はますます不機嫌そうになった。

「いったい香さんのどこが気に入らないの?

どうしてもっとやさしく、大事にしてあげられないの?」

「おいおい、冴子。お前、いったいどうしたんだよ」

今度はリョウが聞き返す番だった。

冴子は決してこんなふうに他人のことに口を出すタイプではないのだ。

冴子はむっつりと口ごもり、

運ばれてきたコーヒーをスプーンでぐるぐるとかき回した。



「……ホントね。どうしたのかしら、私。

なんだか、あなたの顔を見てたら無性に腹が立ってきたのよ」

彼女は肩をすくめた。

「―――すぐ手の届くところに欲しいものがあるのに、どうして得ようとしないのかしらね。

近くにありすぎてわからないのかしら?それとも大事すぎて触れるのが恐いの?」

「―――何の話だよ、いったい」

リョウはとぼけてみせた。

冴子はあきれてため息をつき、ふと窓から外の通りに目をやった。

「あら……とうとう降ってきた」

最初はパラパラと、次第に激しく雨粒がアスファルトをたたきだす。

冴子はしばらくその雨音に耳を傾けていたが、

「そういえば槙村が死んだのも、雨の日だったわね」

ぽつりとそんなことをつぶやき、遠い目をした。

「何言いだすんだよ、急に。―――冴子、お前疲れてるんじゃないか?」

ふいに追憶にふけりだした彼女の感情の移り変りの激しさに、リョウは当惑していた。

「疲れて……? 私、疲れてるように見える?」

窓から目をそらすと、冴子はリョウに問い返した。

その声の調子も表情も、なんだか急に弱々しいものになっていた。

「…………」

「いつも通りに仕事をして、いつも通りに過ごしてるつもりだけど……。

そうね、私、少し疲れてるのかもしれない……」

自嘲ぎみに冴子はほほえんだ。



「―――何かあったのか?」

いつのまにか、リョウも真顔になっている。

冴子は静かに首を振る。

「―――別に。……ただ、なんとなく気だるいだけ。とくにこんな雨の日は……」

再び窓へと顔を向ける。

リョウも冴子の視線を追って窓の外を眺めた。



午後の街は雨のためどうにも薄暗く、あいかわらず人通りも少ない。

何が彼女を憂欝にさせているのかはっきりとはわからなかったが、

彼女が雨を見て槙村を思い出しているのは確実だった。

それにしても今日という日に、

たまたま会った冴子の口から槙村の名を聞くとは、まったく奇妙な偶然だった。

それとも彼女はリョウにまとわりついているであろう槙村の存在を

どこかで感じているのだろうか。

(しかし、まさか槙村が香の守護霊になって、

香から俺を引き離すために俺に嫌がらせをしてるとは思わないだろーな。

しかもそれが麻薬の売人の車を事故らしたり、コンビニ強盗の邪魔をして、

結果的に警察と冴子を助けたことになったなんて……ん? まてよ)



ふとある思いが脳裏を横切った。

(結果的に? いや、むしろあれは……)

しかし彼の物思いは冴子のささやきに中断された。

「……ねぇ? もし槙村が、あの日死なずに生きていたとしたら

……今ごろ私たちどうなっていたと思う?」

それは無邪気とも言える問いかけだった。

「―――どうって……」

リョウは面食らった。超リアリストの冴子とは思えない発言だったからだ

「私と槙村は一緒になってたかしら? あなたと香さんはどうなってた?」

冴子はいたって真面目な表情をしている。



「―――どうもならないさ」



そっけなくリョウは答えた。

「もしもの話なんて意味がない。……あいつは今いない。事実はそれだけさ」

つきはなすような言葉だった。

もっとも、側にいるであろう槙村にも聞こえるように強く言ったのも確かだ。

冴子はまっすぐにリョウを見つめ、そしてゆっくりと視線をそらした。

「あなたって残酷ね、リョウ。……でも、きっと誰よりやさしいのね」

目を細め、淋しげに微笑む。

「―――あの日、雨の中、槙村の死を告げにきてくれたのもあなただったわね。

そう、あなたはやさしい……」

それから彼女はころりと表情を変えた。いたずらっぽくウィンクして、



「……本気でない女には、ね」



と、意地悪くつけ加えた。

リョウはちょっとぎくりとして、

それから何のことだかわからないとでも言うようにそっぽを向いた。

「さぁーて、私そろそろ行かなくっちゃ」

ひどくすっきりした様子で冴子は立ち上がった。

「変なことばかり言って、ごめんなさいね。

―――きっと最近夢見が悪いせいよ。どうかしてたわ」

「―――夢?」

ふと、リョウが聞きとがめる。

「そ。へんな夢。深い霧の中で立往生してるのよ、この私が。

どうすればいいのか、どこへ行けばいいのかもわからずに、

ただ霧の中から何かが現われるのを待っている……そんな夢よ」

らしくないことを言ったので、冴子は照れくさそうに肩をすくめた。

「私もヤキがまわってきたのかしらね。じゃあ……」

「―――冴子」

出口に向いかけた冴子の背中を、リョウは思わず呼び止めた。

「―――さっき、もしもの話なんてするなって言ったが……」

かすかに迷いながらもリョウは言った。



「……もしお前が、今みたいな話をして、

槙村に自分のもろい部分をみせていたら……槙村はお前に結婚を申し込んでたと思うぜ」

冴子はぴたりと足を止めた。

その肩がかすかに震えたように見えたが、やがて彼女はゆっくりと振り返った。

しかしそこにはもう、さきほど見せた気弱そうな表情はみじんもない。

いつもの艶っぽくて、あでやかな笑顔が浮かんでいた。



「バカね……。あなたに人のことが言えて?」

鮮やかに応酬すると、

冴子は踵を返していつものようにさっそうとリョウの前を立ち去っていった。

残されたリョウはひどく憂欝な気分だった。

外の雨はますます強くなり、店内の空気も湿気を含んで重くなってきた。



「―――ナンパはやめて、帰るか……」

リョウは重々しい足取りで店を出た。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(3)へつづく。





「……本気でない女には、ね」
冴子さん、さすがです。

胡麻さま「還ってきた男」(1)

カウンター 70000 hit 企画

皆様のご訪問、心より感謝申し上げます。
7万Hitイベントとしまして、
よろずサイト「言ノ葉隠れ」を運営されていた胡麻様の
お作をご紹介させて頂きます。
胡麻様は、2002年2月28日から2013年3月31日までの
約11年間という長きにわたって
サイトを管理されていらっしゃいました。
しかしながら、
ネット環境の変更に伴い、今年の3月末にサイトを閉鎖されました。
多数のお作の中で、1993年7月執筆のCH二次小説を1点お持ちで、
閉鎖に伴い、取り扱いは自由にとのことで、
香ちゃんのお誕生日に原稿を頂戴致しました。
どのタイミングで公開すべきかと迷っておりましたが、
今回この形でのお披露目をお許し頂ければと思います。
恐らく、2013年6月現在、
胡麻さまのこの作品を読めるのはここだけ?ということで、
20年前に紡がれた貴重なお作をお楽しみ頂ければ幸いでございます。

全3回、本日より3日間連続で、18:18でお届け致します。
また、頂きました貴稿は
エクセル表示で全て行間がない状態でしたので、
勝手ながら、こちらで微調整をさせて頂きました。
できるだけお作の雰囲気を壊さないようにと心がけましたが、
こちらの未熟さ故、
拙策工事になりましたことをお詫び申し上げます。





『還ってきた男』(1)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



深い霧の中に彼女は立っていた。

うっそうと濃い霧と、それよりやや薄い霧が気流をつくり、

渦巻くように彼女を包み込んでいる。

目を凝らしてもそれ以外は何も見えない。

空気は湿気を含んで重く、しかも肌寒い。

こんな場所にただ一人立っているのだから、彼女はだんだんと不安になってきた。

その時、かすかだがどこからか声が聞こえてきた。

彼女はきょろきょろと辺りを見回す。



『―――…り……香……』



次第にはっきりしてきたその声が、自分の名を呼んでいることを彼女は知った。

「誰―――? 誰かいるの?」

声のした方に向きなおり、香は叫んだ。

彼女の声に反応するように、霧の中にぼんやりと人影のようなものが浮かび上がった。



『―――香、俺だ……』



ゆらゆらと不安定に揺れながら、それはささやくように言った。

香の体に電流のようなショックが走る。

それは低い、まるで口元を布で覆ったようなくぐもった声だったが、

たしかに聞き覚えのある声だった。



「ま、まさか……」



愕然とする香の前で、その人影と香を遮っていた霧が少しずつ引いて、

その人物が全容を現していく。



「あ、兄貴……?」



おそるおそる香は尋ねた。あんなに深かった霧はウソのように消えた。

そして、彼女の目の前に立っていたのは……もう何年も前に死んだはずの香の兄、

槙村秀幸だった。



『久しぶりだな、香……』



槙村が言った。

くすんだ色のスーツに包まれた小柄だががっしりとした体、

不精そうなボサボサ頭、そして香にだけ見せてくれるやさしい笑顔……。



「―――兄貴っ!」



ふいに香が槙村の胸に飛び込んだ。

あまりの勢いに少々よろけながらも、槙村は香を受けとめ、抱きしめた。

香は彼のシャツをわしづかみにして泣きだした。

シャツから漂うなつかしい兄の匂いに、涙が後から後からあふれてくる。



『長い間、つらい思いをさせた……。すまない、香』



槙村が香の震える肩をさらに抱き寄せながら、

耳元で言った。



(これはきっと夢だ。あたしはまた夢を見てるんだ…)



泣きながら、香はそう思った。

死んだはずの兄が戻ってきてくれる夢を、彼女はこれまでだって何度も見ている。

だからこれもまた夢にすぎないことはわかっていた。

たとえどんなにリアルでも、朝になれば消えてしまうのだ。



(それでもいい。たとえわずかな間でも、兄貴の存在を感じていられるなら……)



やがて香は涙を払って顔を上げた。

そこには四年前と少しも変わらない兄の笑顔があった。



『きれいになったな、香』



槙村は妹を見つめ、まぶしそうに目を細めた。

『それは―――今、幸せだからか?』

彼は香に問いかけた。

「え? う、……うん、まぁね」

香が戸惑いを見せたので、槙村の表情が曇った。

『どうした? リョウは優しくないのか?』

「リョウ―――? あいつがあたしに優しくなんかするわけないじゃない」

(―――そういえば、昨日もケンカしたんだっけ)

昨日の夕食後のリョウとのいさかいを香は苦々しく思い出した。

「あのもっこりバカはあたしのことなんて女と思ってないもの。

あいつ、女以外は毛虫のように嫌いなのよ」

『―――本当か?』

「そーよ。……だいたい、

なんだって兄貴はあんな奴にあたしのことを頼むなんて言っちゃったの?

おかげで、あーんなちゃらんぽらんな奴と一緒に暮らすはめになっちゃったじゃない。

面倒をみてるのは、むしろあたしの方よ!」

『リョウの奴、そんなにお前にひどいことを?』

「ひどいなんてもんじゃないわ!」

香は兄相手に息をまいた。

「女の後ばっかり追っかけて、ちっとも仕事しないんだから。

そのくせあたしには掃除、洗濯、食事の支度と、身の回りのことなんでもさせて。

稼ぎもないくせに毎晩のように飲み歩いて借金だらけだし、依頼人には手を出すし、

男の仕事は引き受けないし、のぞきはするわ、下着ドロはするわ……」



香にものすごい勢いでまくしたてられ、

槙村はあっけにとられたように黙り込んでしまった。

兄の様子に、香はハッと口をつぐんだ。

(あたしったら、せっかく兄貴の夢を見てるのに、何ぐちってるんだろ)

おそるおそる槙村の顔をのぞきこむ。

槙村はひどく難しい顔をしていた。



「兄貴―――?」



『……よくわかったよ、香』

やがて彼は静かに言った。

香の肩に手を置くと、

『リョウのことは、お兄ちゃんにまかしておけ』

「―――え?」

『俺はお前が幸せになるためだったら何でもしてやる。

―――そのために帰ってきたんだから……』

最後の言葉が終わらないうちに、槙村は香から少し離れた。

すると、その姿が急に薄れだした。

「あ、兄貴―――?」

驚く香に、槙村は別れを告げるようにそっと手を振った。

「兄貴!……やだ、行かないでっっ!」

追いすがろうとする香の前で、槙村は静かに姿を消した……。








「―――と、いう夢を今朝見たのよ」

「ほぉ……」

新聞を片手に、トーストを二枚いっぺんに口に含みながら、

リョウはいかにも気がなさそうに相づちを打った。

「ちょっとー、あたしの話、ちゃんと聞いてんの?」

朝食の並んだテーブルを、香が両手で叩いた。

「なんで俺が、お前の夢の話を真剣に聞かなきゃならんのだ?」

リョウはそう言うと、新聞をほうり投げ、

サラダ・ボールの中身をかたずけにかかった。

「だって、すっごくリアルな夢だったのよ。こう……兄貴のシャツをつかんだら、

兄貴の匂いなんかがして……。その上、あたしの話を聞いて真剣に怒っちゃって、

『リョウのことはまかしとけ』とか、

『俺はお前が幸せになるんだったら、なんでもする』とか言ってくれちゃって。

……あれはきっとただの夢なんかじゃないわよ。

あたしのことを心配した兄貴が、夢を通じて様子を見に来てくれたのよ。

そうよ、そうに違いない」

一人で頷いている香を横目に、

リョウは最後のコーヒーまできれいに朝食をたいらげると、

のっそりと立ち上がった。



「ん……? どこ行くのよ、リョウ」

「ちょっと食後の散歩にね」

「またぁ! そんなこと言って逃げる気でしょう? 

今日は駅前でビラ配りだって言ってあったはずよ」

「おまえ一人でやりな」

香の抗議など意にも介さず、リョウは玄関に向って歩きだした。

「こらぁ! 待ちなさい!」

香がハンマーを手に突進してくる。それをひょいと避けると、

リョウはスキップで玄関へたどりつき、ドアのノブに手をかけた。

「こら、リョウっ! いい加減にしないと……」

「いい加減にしないと、どーなんだよ?」

リョウは振り返り、怒鳴りかけた香を遮って、さもバカにした様子で言った。

リョウのふてぶてしい態度に、香は悔しさのあまり歯をギリギリと鳴らし、そして叫んだ。

「あ、兄貴が―――兄貴があたしの代わりにあんたを懲らしめに来てくれるんだから!」

「ほぉー」

リョウはまったく相手にしていない。

「『ゴースト』じゃあるまいし。まったく、いつになったらそのブラコンがなおるのかね」

笑いながら、外へ出て行ってしまった。

閉まったドアに、香は側に置いてあった花瓶を悔しまぎれに投げ付けた。

すさまじい音がして、花瓶が跡形もなく砕ける。

肩でハアハアと息をしながら、香はつぶやいた。

「ホ……ホントなんだから。兄貴は夢の中でだってウソなんかつかないわ。

だって兄貴は……兄貴はリョウなんかの百倍も千倍も、

あたしのこと想ってくれてたんだから……」



悔しそうに唇を噛みしめながらも、

香はかがんで花瓶の破片を拾いだした。

怒りとともに、

兄の百分の一も、千分の一も彼女のことを想ってくれない男のために、

せつない吐息を無理に飲み込みながら……。







「……ったく。朝っぱらからうるせえヤロウだ」

ポケットに手をつっこみ、背を丸めたいつものスタイルで、

リョウは歌舞伎町の通りをひょこひょこと歩いていた。

朝食を食べたばかりとはいえ、

そもそも起きた時間が遅いのだから、時間はそろそろ正午に近い。

昼前とはいえ、梅雨も近い東京の空はどんよりとして、空気もムシムシしている。

歌舞伎町の通りも閑散としていて、

人の数よりも地面にまき散らされたゴミの数の方がずっと多いくらいだった。

そんな街を、リョウはたいした感慨も持たずに、

ひょいひょいゴミをよけながら歩いていく。

「いくつになっても兄貴、兄貴って、しょうがねぇ奴だぜ。

んなこと言ってるからいつまでたっても色気がつかねぇんだ」

肩をすくめ、なおもボヤく。



『―――しょうがないのは、お前だ』



不意に、耳元で声ならぬ声がした。

「―――ああ?」

リョウはぎょっとして、辺りを振り仰いだ。

「なんだ今の『声』は……。気のせいか? いや、確かに一瞬人の気配が……」

その時、リョウの頭上で何かかきしむ音がした。

反射的にリョウはわずかに体を右に傾けた。

そのすぐ横を派手な色をしたものがすりぬけた。



カッシャ―――ン!



リョウに当たりそこねて、けたたましい音とともに地面に叩きつけられたのは、

そばのビルの三階あたりに取り付けてあったキャバレーの看板だった。

看板は粉々に砕け、その極彩色の破片が辺り一面に飛び散った。

「危ねぇ、危ねぇ。脅かすなよな」

リョウは看板のついていたビルの壁を見上げた。

殺気らしいものは感じなかったし、人影も見えない。

おそらく止め金でもはずれたのだろう。



「またゴミが増えちまったな」

看板のかけらをけっとばすと、

リョウは再び歩きだした。



「さーて、この時間から開いてる店というと、やっぱ美樹ちゃんのとこかな」

新宿の通りへと、足の向きを変えたその刹那―――。

爆発的なエンジン音とともに、

真っ赤な車がとんでもないスピードで彼のいる通りに入ってきた。

「―――!」

車は左右に乱暴にタイヤをきしませながら、

あきらかに正気ではない勢いでリョウの方へと突っ走ってくる。

ビルと車体の間に押し潰されそうになり、

リョウはとっさにジャンプすると、車の天井に片手をつき、

そのまま一回転して反対側に転がり降りた。

車はビルにつっこみ、止まったはいいが、

メチャクチャになったエンジン部分から火が吹き出した。

「―――ちっ」

リョウは運転席のドアに飛びついた。

中から運転手を引きずり出し、そいつを引きずったままビルとビルのすき間に飛び込む。

車が爆発したのは、その次の瞬間だった。

ガソリンをたっぷり入れていたらしい。

真っ黒な煙がたちのぼり、爆炎が止むまで数分を要した。

「あ、わわわわ……」

リョウの横で、男が意味不明のうめき声をあげた。

びっくりしてはいるようだが、目がとろんとして、手足に力が入っていない。

あきらかに、何らかの麻薬の症状だった。

「朝っぱらからラリってんじゃねぇよ! ちっとは人の迷惑考えろ!」

腹立ちまぎれに、そいつを一発ぶっとばすと、リョウは立ち上がった。

遠くからかすかにパトカーや消防車のサイレンが聞こえてきたからだ。

面倒なことになる前に、

彼はさっさとこの場からずらかることにした。







カラン、カラン…… 

喫茶『CATS AYE』のドアをくぐると、

「いらっしゃ……なーんだ、冴羽さんか」

と、美樹の迷惑そうな声がリョウを迎えた。

「なーんだ、はないだろ。美樹ちゃん、俺だって客なんだぜ」

リョウはドスンとカウンターのいつもの席に腰掛けた。

「冗談じゃないわよ。昨日ここで香さんと大ゲンカしたのは誰?

椅子を三脚、コーヒーカップを六客とミルク入れ、砂糖壷を計四つ壊したこと、

憶えてないの?

昨夜、ファルコンと二人で夜中の二時まで後片付けしてたのよ」

美樹はカンカンに怒っている。

香とここでケンカしたのは、今月に入って三度目だったので、

リョウも笑ってごまかすしかない。



「だからさー、迷惑かけてる分、こうやってせっせと通ってるじゃない」

「いっそもう来てくれない方が、ずっとありがたいわ」

「またそーゆうことを。第一、物を壊すのは、俺じゃなくて香の方だろ?

文句は香に言ってほしいね」

「その香さんを怒らせているのは、あなたでしょう?」

美樹がコーヒーカップを乱暴にリョウの前に置く。

「知らないよ。あいつが勝手に怒ってんだから」

「勝手なのはあなたの方よ。どうして香さんにもっと優しくしてあげられないの?

こんなふうにケンカを続けるよりずっと簡単なことじゃない。一言、香さんに……」

「ストーップ。それ以上聞くと、コーヒーがまずくなる」

リョウはひらひらと手を振って、美樹を黙らせた。

「もぉ―――」

美樹は腰に手をあてて、リョウをにらんだ。

「好きにしなさい。……あなたなんか、そのうち絶対にバチが当たるんだから」

言い捨てて、美樹はプイと中に引っ込んでしまった。

リョウは肩をすくめながら、コーヒーをすすった。



『―――兄貴があたしの代わりにあんたを懲らしめてくれるんだから!』



出際の香のセリフが、ふと脳裏を横切った。

(まったく、24にもなった女のセリフかね、あれが)

 鼻先で笑いかけて、ハタと彼はカップを宙に浮かしたまま考え込んだ。

(そういえば……さっき、看板やら車が突っ込んでくる前に耳元で聞こえたあの声

―――どっかで聞き覚えがあると思ったら、あれは槙村の声だ!)

彼は茫然とした。しかしあわてて首を振り、ハハハと無理に笑った。

(何考えてんだ、俺は。死んじまった奴の声なんて聞こえるわけないよな。

まったく、香の奴が妙なこと言うもんだから……)



「どうしたの、冴羽さん?」

中から戻ってきた美樹が一人で笑っているリョウを気味が悪そうに見つめている。

「い、いや、別に」

「ふーん。……ねぇ、ところでちょっと留守番を頼んでいいかしら? 

仕入忘れた物があるのよ。今日、ファルコンは『仕事』でいないし。

……冴羽さん、どーせヒマなんでしょ?」

「ああ? たくっ、この店じゃ客扱いされてないな」

「ごめんね、すぐ戻るから。あ、ここにあるコーヒー、好きなだけ飲んでいいわよ」

そう言ってエプロンをはずすと、美樹はリョウを置いて出ていってしまった。

一人店内に残され、リョウは淋しくコーヒーをすする。



すぐ戻ると言ったくせに、30分たっても美樹は帰ってこなかった。

そのうち退屈し、コーヒーにもうんざりして、リョウは窓ごしに通りを眺めた。

昼時にしては人通りが少ない。

降りだしそうで降らないどんよりとした空に、人々は外出を控えているのかもしれない。

たまに通る者も、なんとなく憂欝な表情をして歩いている。



「あーあ……。こんな店ほっぽって、ナンパでもくりだそうかなー。

新宿じゃ香に出くわしてビラ配りさせられちまうから、渋谷の方でも……」

退屈と憂欝を頭から追い出そうとするかのように、

リョウはポンと手を打って自分自身に提案した。

そして、さっそく実行に移そうと立ち上がりかけたのだが……。



『―――相変わらずだな、お前は』



例の声が、半ばあきれかえった調子で聞こえてきた。

リョウはぎょっとして辺りを見回した。

もちろん店内には誰もいない。

その時、店内がまるで日が陰ったようにふいに薄暗くなった。

照明がまばたくように点滅し、

店中のインテリアや食器などがカタカタとかすかな音をたてる。

リョウは辺りの様子に目を見張っていたが、

何か気配を感じて、ハッと自分の右隣の席を振り返った。



「―――!」



リョウはゴクリと息を飲み、思わず椅子ごと一メートルほど後ずさった。

彼の隣には、いつのまにか「人」が座っていた。

いや、「人」と言えるかどうか、何しろそれは、どんよりとした空気に包まれた、

およそ質感のない古いモノクロ映像のようにあいまいな輪郭をした、

まるで影のような人物だった。

ぼさぼさの髪をして、

くたびれた背広らしきものを着たその人物がゆっくりとリョウの方を向いた。



「……ま、槙村!」



リョウは愕然とした。

振り向いたその男は間違いなく、

五年も前に死んだはずのリョウのもと相棒、

そして香の兄である槙村だったのだ。



『―――久しぶりだな、リョウ』



低い、くぐもったような声が、

聞こえるというより脳裏に響くように不気味に伝わってきた。

「槙…村なのか? ほ、本当に……」

リョウにはまだ信じられなかった。槙村はゆっくりとうなづいた。

『ああ、そうだ』

「そうだって……。てことは、幽霊なのか、お前……」

我ながら間抜けな質問だとは思ったが、ほかに言葉が思いつかない。

『まぁ、そうだな』

生前ほどではないが、槙村は意外と表情豊かで、苦笑を浮かべている。

「い、いったい何で今ごろ、……五年も経ってから、しかも真っ昼間に……」

リョウは動揺を隠せなかった。

『いろいろ事情があってな。それよりリョウ、お前に聞きたいことがある』

「―――い?」

『俺はお前に五年前のあの日、香を頼むと言った。そうだな?』

槙村はまっすぐにリョウを見つめてきた。

「あ……ああ」

いくら元親友とはいえ、幽霊に見つめられていい気はしない。

リョウは全身にわき上がってくる悪寒と鳥肌を必死でこらえなければならなかった。

『五年間香が無事だったところを見ると、

お前がこれまでちゃんと香を守ってきてくれたことはわかる。

……だから、てっきり香は幸せに暮らしてるものだと思ってこの世に帰ってきてみれば、

香本人はけして今幸せではないと言った。これはどういうことなんだ?』

「どうって……」

『香が幸せじゃない原因はどうやらお前だ。

お前があいつを傷つけ、苦しめているからだ。

お前は俺がどんな思いで、あの時あいつのことをお前に頼んだかわかってるのか?』

 槙村の目付きがだんだん鋭くなっていく。

『少なくとも、こんな悲しい思いをさせるためじゃないぞ!』

 彼が叫んだ瞬間、戸棚に並べてあったグラスが触れもしないのに砕けて飛び散った。

「―――!」

リョウは度胆を抜かれ、割れたグラスと槙村を見比べた。

「お、おい、今のお前が……?」

おそるおそる聞いてみる。槙村は得意げに答える。

『ああ、そうだ。俺は死んで霊魂だけになった。

しかしどうしても妹のことが心配で、霊界で五年間修業して霊力を高め、

守護霊に昇格してこの世に戻ることが許されたんだ』

「守護霊――? もしかして、香の?」

『そうだ』

「じゃ、その、ひょっとして歌舞伎町でのあの事故は、

二件とも、ひょっとしてお前がこの変な力で……?」

『そーいうことだ』

槙村は悪びれもしていない。

「あのなー! ヘタすりゃ俺は死んでたかもしれないんだぞ!

いったい何の恨みがあってあんなひでーまねするんだ!」

不気味なのも忘れてリョウは怒鳴った。



『あれは警告だ』



あっさりと槙村は言う。

『もうお前に香はまかしておけない。お前が側にいると香が不幸になるからな。

それに、これからは俺が香を守るから、お前など不要だ。

……要するに、お払い箱ってわけだ。これからは香に近付くな』

一方的に槙村はリョウに言いわたした。

「て、てめー」

リョウの方は、血管の一本や二本切れそうな気分だ。

「黙って聞いてりゃ、突然出てきて勝手なことばっか言いやがって。

何で俺がそんなことお前に命令されなきゃならんのだ!

そもそも勝手に香を押しつけて死んじまったのはお前だろ?

感謝こそされても、文句言われる憶えはないね。

幽霊になったからって、でかい顔するんじゃねーよ!」

カウンターに拳を叩きつける。

と、同時に、天井のライトの一つがはずれ、リョウの頭に直撃した。

「―――いっ!」

リョウは両手で頭を抱えた。それを見て槙村はせせら笑う。

『カッカするな、リョウ。いくらお前が超一流のスィーパーでも、

俺の霊力の前ではしょせんただの人間にすぎん。

とっとと香の前から姿を消せ。でないと生命の保障はしない。……わかったな、リョウ』

高飛車に念を押すと、出てきた時と同様、唐突に槙村の姿は煙のようにかき消えた。

「―――?」

槙村が見えなくなると、

薄暗かった店内がウソのように明るくなった。

できれば今の出来事も夢だと思いたいところだったが、

砕けたグラスや壊れたライトの残骸はそのままなのでそうもいかない。

リョウが痛む頭をさすっていると、美樹が帰ってきた。



「遅くなってごめんねー、冴羽さん。あら……何よ、これ!」

カウンター周辺の散らかりようを見て、

美樹は持っていた荷物をばっさりと落としてしまった。

「まったくもー、何やったのよ、冴羽さん!

あなたって人は、物を壊さずに留守番もできないのー?」

すっかりおかんむりになって、

美樹はグラスの欠片を拾いながらくどくどと小言を言い出した。

訳を話したところで、どうせ信じてもらえそうにないので、

リョウは大人しくそれを拝聴するふりをしたが、

心中はもちろんそれどころではなかった。



(香に近づいたら生命の保障はないって?

あいつ、いっぺん死んだら性格が変わったんじゃないか? いや……)

思いなおして、リョウはぷるぷると首を振る。

(そうじゃない。奴は変わってなんかいないんだ。……もともとあーいう奴だったんだ。

とんでもないシスコンで、妹のためなら人の一人や二人殺しかねんくらい…)

背筋にゾーと悪寒が走った。



(―――俺、今度ばかりは無事にすまないかも……)



なおもくどくどと美樹にしぼられながら、

リョウはかつてない強敵の出現に大きなため息をもらした。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(2)につづく。






槇兄ぃのお怒りは当然?

21-08 Apple Juice

第21部 Invasion Of A Novelist

奥多摩湖畔から11日目  


(8)Apple Juice ***************************************************** 4641文字くらい



「唯香ちゃん、お待たせ。リンゴジュースでいいかしら?」

「わぁ、ありがとうございます!」



脇にワープロを置いて、さっそくグラスを両手で持つ。

「走っちゃったから、のど乾いてたんだ。頂きまぁーす。」

「ど、どうぞー。」

くいくいと二口三口喉を上下させて、

乾いた食道の繊毛を潤した女子高生は、ことりとグラスを置くと

長辺側に座った香につつっとにじり寄った。



「ねぇ、香さん。たぶんお忙しいと思いますんで、

早めにおいとましようと思っているんですけどぉ。」

本音とは逆のことを言葉にしながら、

流し目で見つめてくる唯香に、香はぎくんと硬直する。

「手短にお話しして頂ければ、すっごく有り難いんですけどぉ。」

「て、手短かって、な、なんのこと、かしら?」

香はとりあえず自分もリンゴジュースを飲むことにする。



「冴羽さんとはどこまでしたんですか?」



ぶっ!

直球ストレートの質疑。

もちろんお約束のように、口に含んでいたものが霧状に散布されてしまった。

「ゆゆゆ、ゆ、唯香ちゃんっ!」

香は、コンマ数秒で全身茹でベニズワイガニ状態。

それでも、ぎくしゃくしながらジーンズのポケットからハンカチを取り出して

急いで口元を拭い、

トレーと一緒に持って来た台拭きで、ガラステーブルを高速で拭き上げた。

「ど、ど、どこまでって、いいいい、い、一体、な、な、なんのこと、かしらぁ??」



とりあえずこの段階では、まだとぼけてみることにする。

「だって、冴子お姉ちゃん、冴羽さんが覚悟を決めたってようだって言ってたから、

冴羽さんが香さんを助けに行った時、

何かなければ、あのお姉ちゃんがそんな言わないと思うの。」

「へ?」

「キスとかされたんですかぁ?」

香の顔を覗き込むように尋ねる唯香。

ぼしゅっと香の耳から間欠泉の様に蒸気が吹き上がる。

既に全身の肌色は赤を通り越し、

このままぶっ倒れてしまうんじゃないかという程に、

汗の粒が表皮に浮き始める。

もうこの反応だけで、イエスと言っているようなもの。

しかし、香の口はまだ必死に誤摩化しモードへ持って行こうとする。



「や、や、やだっ!ゆ、ゆ唯香ちゃんっ!あんな変態オトコと、き、き、きき、っすなんてっ、

でででできるワケ、ないわよっ!

こここここっちから、おおおお断りよっ!」



両手の平を胸の前でワイパーの様に高速で動かし、

赤い顔をぶんぶんと横に激しく振る香。

唯香は、はぁと短く息を吐き出す。



「……香さん、その言い方じゃ、誰も信じてくれませんよ。」

「ぐっ…。」

「あたし、詳しいことは全然聞いていないんです。

でも…、

たぶんあたしの読みが当たっているなら…、

お二人ともちゃんとした『結論』が、…出たんですよね。」



さっきの撩との約束だと言っていた時に出た文言が再び登場する。

「ゆ、唯香ちゃん……。」

自分より遥かに年下である彼女が、

一瞬ずっと精神年齢が上の女性に見えてしまった。



確かに事実はその通り。

自分たちは『結論』を出したのだ。

共にそばに居続けることを、共に生き抜くことを。



「香さん。」

「はっ、はい?」

「なんだかすっごく綺麗ですよ。」

「は?」

いきなり話題の切り口が変わる。

「あたしがお世話になった1年前も、香さんって綺麗で素敵だなぁって

思ってたんですけど、その時よりもなんか磨きがかかっている感じ。」

「へ?」

「エステとかに通っているんですか?」

「そそそそんな、おおおお金がかかるようなところに、かっ通えるゆとりなんか、

うちにはなななないわよっ。」

肩を小さく縮めて首を細かく振る香。

にやりとする唯香。

「……じゃあ、やっぱり冴羽さんに大事にされてるんだ。」

「っな!」

ぼしゅしゅっと耳から蒸気が再度吹き上がる。

ナンテン、クロガネモチ、サルトリイバラ、セイヨウヒイラギと

赤さを誇る木の実の色を全て混ぜ込んだように、

更に変色しまくる香。



「あの結婚式から、もう10日以上経ってますけどぉ、もう一緒に寝ていたりするんですかぁ?」

香を覗き込みながらそう訪ねてくる17才の少女。

香はその好奇心一杯で輝く唯香の目に耐えきれず、

しゅうしゅうと頭部から湯気を出しながら、左手で両方の目頭を押さえ、

上半身を支えきれずに、右手をソファーについて

はぁーと長い息を吐き出しながら、うつむいてしまった。



「か、香さん、大丈夫ですか?」

そう言ったとたんに、リビングの扉が開いた。

「あ!冴羽さん!」

「ったく、こぉーなることはわかってたんだよなぁ〜。」

とりあえずヒゲもそり、顔も洗い、

いつものズポンにTシャツ姿で登場する。

「ご、ご無沙汰してました!お邪魔してます!」

ぴしっと立ち上がって撩に挨拶をする唯香。

どういう訳か緊張で必要以上に姿勢が良くなる。



そのままソファーに近づいた撩は、

香の右腕をひょいと掴んで立ち上がらせた。

「!!っ、あ、りょ…。」

湯気が上がるのぼせたままの顔を上げる香。

持っている上腕が熱い。

「おまぁ、キッチンで頭冷やしてこい。」

「え?」

「あとは俺が話す。」

「え?」

「ほれ、早く濡れタオルでも顔につけてこい。」

そう言いながら、香の肩を押してリビンクの外に移動させた。

後ろ手にパタンとドアを閉めると、唯香のほうに向き直って、

ふうと一息吐き出した。



ぱたぱたとスリッパの音を立てて、

さっきまで香が座っていたところにどさりと腰を下ろす。

足を組み、右腕を背もたれにひっかけ、丸めた指をこめかみに当てる。

左手はけだるそうに左腿の上に投げやると、

目だけ動かして隣の彼女の姿を瞳に移した。



「まぁ座れよ。」

「あ、は、はい。」

立っていた唯香はすとんと元の位置に座り直した。

「……久しぶりだな。今高3か?」

口調は穏やかではあるが、

ものすごく張りつめた空気が自分たちの周囲を取り巻いている。

危険信号も若干感じつつも、

取材をしたい、何があったか聞き出したい欲が勝っている彼女は、

とりあえず平静を装って会話を続けることにした。



「そ、そうです。もう周りは受験モードでピリピリしているんですけど、

あたしは、推薦が決まりそうなんで、結構ゆとりがあるんです。」

「ほぉ。」

自分の分のグラスに左手を伸ばす撩。

くっと傾けて一口飲む。

「甘…。」

すぐにテーブルにリンゴジュースを戻した。

唯香は、その動きを黙って目で追う。



「あ、あの冴羽さん」

「却下。」

「は?あたし、まだ何も言ってないじゃないですかっ!」

「全部却下。」

撩は左手で前髪を搔き上げながら、心底迷惑そうな表情で続けた。

「何を聞かれても拒否。」

「えーーーっ!!!黙秘ですかぁ!?」

思わずまた立ち上がる。

「さっき、俺が話すって言ってたじゃないですか!」

「香じゃもう対応できねぇーからだろ。」

頭をがしがしと掻く撩、またすとんと座りなおす唯香。



「お前がどこまで冴子や麗香から聞いたかは知らねぇが、

とにかく今は、何にも話す事はない!」

目を閉じたまま顎をそらして腕組みをする。

「……今、は、…ですか?」

唯香は、上目使いで撩をちろっと見やる。

撩は、薄めを開けてじろっと軽く睨む。

「……訂正しよう。ずっと、の間違いだ。」

「ずっるーい!!!」

「ずるいも、くそもあるか。」

はぁと溜め息を出した唯香は、ちらっとグラスに目をやると

手に取って、くっと一口喉に流した。

撩も、とりあえず再びリンゴジュースに口をつける。



「そっか…、冴羽さんも戸惑ってるんだ…。」

「ぶっ!ごほっ!」

派手な水音がしたと同時に、撩のむせ返る姿。

自分の吹き出した液体とグラスの中の液体がぶつかって跳ね上がったリンゴジュースを

そのまま自分の顔にもろ浴びてしまった。



「っおま!なんだよ!それ!」

「ふーん、図星みたい、ですね。」

唯香はニヤニヤと勝ちを感じた表情で撩に香が持って来たおしぼりを手渡した。

それを乱暴に奪い取り、機嫌悪そうに濡れた箇所を拭く撩は、

じろりと隣りの少女に視線を投げやる。



「あー、とにかく何にも話す事はねぇから、諦めてさっさと帰るんだな。」

「冴羽さん…、お二人の結論が出たら、取材させてくれる約束じゃないですか。」

「んな約束した覚えはねぇ。」

「ずる…、あの時の冴羽さんは無言でオッケーって言ったようなもんですよ。」

屋上での会話を思い出させようとする。

「俺は何も言ってねぇーし。」

唯香は、撩をじとっと見やると、目を閉じてまたはぁと一息漏らした。



「……香さんへの危険が、増しちゃう、から?」

「あ?」

姿勢をただした唯香は改めて撩に向き直った。

「お二人がまとまったって、バレると香さんがもっと危ない目に遭う、

だから話せない、ってこと?」

「……黙秘。」

「っもう!」

ふぅと息を吐く唯香は、

目を閉じたまま腕を組みソファーに深く座る撩を見つめる。

その表情の下に隠されたものは、

そう簡単には浮き上がることはない。

唯香も以前一緒に過ごした中でそれは十分心得ている。



今日の目的は、2人の進展に関する情報を直接聞き出し、

新連載の素材として大きく活用したいと、

このチャンスを狙って訪問を試み接触に成功したワケではあるが…。



「……早く、来過ぎちゃった、みたいですね。」

「あぁ?早くも遅くもあるかよ。いつ来ようと一緒だっつーの。」

唯香は膝の上に両手を重ねたまま、

ふっと肩の力を抜いてやや上を向き細く息を吐き出した。

「分かりました。出直します。」

撩の方に向き直る。

「あ?」

「でも、もう『答え』を出したって受け止めちゃいます。」

「……なぁーに、勝手なこ」

「冴羽さん。」

撩の会話を遮ってやや強い口調で名を呼ぶ唯香。

一息ついて、ゆっくりと撩を見つめる。

「……すごいですよ、こんな業界でそんな決心をするなんて。」

撩の白目の面積が増えて、丸い瞳が皮膚にかぶることなくあらわになる。




— すごいよ おまえ…  この世界でそんな決心するなんてさ…… —




つい12日前に、自分がファルコンに向けて控え室で漏らした本音の台詞が、

唯香の口からも紡がれた。

「簡単なことじゃなかったのは、分かってますから。」

明るい口調に、撩もはっと我に返る。

「また改めて伺いますからね。」

隣りに鎮座させていたワープロを抱えて、専用の鞄に押し込むと

唯香は持って来た荷物を一通り抱えて立ち上がった。

「こなくていーっつぅーの。」

撩は、目を閉じ頭の後ろに両手を組んで

眉を八の字にしながら下唇を突き出した。

そんな撩を見てくすりと口元が緩む彼女は、ガラステーブルの脇を通りながら

香の居所を確認する。

「ねぇ、冴羽さん、香さんまだキッチンかしら?

一言ご挨拶してから帰ろうと思うんですけど。」

「あーん?ほっとけ、ほっとけ。」

背中の壁越しに感じていた気配では、客間に移動したことを確認済み。

「もうっ。」

リビングの入り口前で、また振り返った彼女は、

膨れっ面からにっこり笑顔になると、今後の宣言をすることにした。



「でも!外では総力取材させて頂きますから!」

「い?」

撩の組んでいた指がほどける。

「じゃあ、お邪魔致しました!」

パタンと閉まるリビングの扉。

その奥で、大きな声が響く。

「香さぁーんっ!おじゃましましたぁー!また来ますねぇー!」

香がいるであろう方向に向かってそう叫んだ唯香は、

足取り軽く冴羽アパートを後にした。



1階まで降りて来て、路上で改めてアパートを見上げる。

「ふふっ、これから忙しくなりそうだわ!」

撩の態度の一部始終を忘れないうちに電車の車内で早く文字データにしなければと、

高校3年の彼女は、新宿駅へ足早に戻って行った。

その様子を、向かいの白人がオフィスから見下ろしていたことを

本人達が知るのはもう少し先のこと。


***********************************
(9)へつづく。




【いずれ原稿を修正致します〜】
Mさまからご指摘を頂きました〜。
当方、とんでもない間違い設定をここで使ってしまいました。
唯香ちゃんの学年ですが、
完全版28巻、第288話にて、
香の台詞の「今年高校に入ってから作家デビューして」という
くだりがあったことをスコーンと記憶から抜けておりました。
初めて撩と香に出会った時は高校1年だったということで、
1年間違った表記でこの章を作ってしまった次第です。
原作の中身を大事にしたいと思っていながら、
これはかなり情けないミスでございます。
いつになるか分かりませんが、
機会を作って、内容を改稿したいと思います。
教えて下さったM様本当にありがとうございました。
[2013.09.08]

7万ヒットありがとうございます

2013年6月12日の午前1時台に、
なんと、カウンターが7万を越えてしまいました。


もう「ありがとうございます」を何回言っても足りないくらいです。
訪ねて下さる全ての皆様、
このサイトに貴重なお時間を使って頂き、
本当に本当にありがとうございます。


これまで、キリ番区切りの企画として、
短編をアップさせて頂いておりましたが、
今回は「頂き物」をご紹介したいと存じます。


明日、6月13日より3回連続の1818更新で、
お届け致します。


詳細は、初回の冒頭にございますので、
ここでは予告のみということでお許し下さい。



(本編手術中でSSに手が出せなくて…)



本業?のイベントものが多くなり、何かと慌ただしく
本当はもっとじっくりゆっくり
こっちをかまいたいのですが、
週に2回、3回なんとかログインして、
ほったらかしの目次を慌てて追記していたりします。
作業が先送りになり、本当に申し訳ございません。


6月分も、一応自動更新される予定ですので、
またお手すきの折に、
お立ち寄り頂ければと存じます。


画面の向こうの全ての皆様に感謝です。




以下、個人的なネタなので、
ご負担になられる方はスルーで。
(やや長文)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

→続きを読む

21-07 What Would Do ?

第21部 Invasion Of A Novelist

奥多摩湖畔から11日目


(7) What Would Do ? *****************************************************1268文字くらい



「わっ、ここにいたの?」



キッチンの扉を開けた香は、

白木のテーブルに両手で頬杖をついてぶすっとしてる撩に

驚きの声を出した。

目視で食事をちゃんと済ませていることを確認するも、

すでに食器かごの中が全て食器棚に戻されていることに、

さらに驚く。

撩の脇には、使っていたと思われる自分のエプロンが投げられている。



「あ、洗ってくれたんだ…。あり」

「おまぁ、なんでこんなことになったんだ?」

「え?」

食器を片付けてくれた礼の言葉は、機嫌が悪そうな撩の台詞で遮られる。

唯香のことを差しているのは香でもすぐに分かった。



「あ、…その、

途中でばったりと会っちゃって、……ほ、ほら!1年ぶりだし、

唯香ちゃん、今日学校早く終わって、こっちにこようって思ってたらしくて、

そ、それで、た、立ち話しも何だからって…」

別に悪い事をしてしまった訳ではないが、よく分からない罪悪感を抱えながら

しどろもどろで理由を話す香。

「で、侵入成功ってワケか。」

ぐてぇーとテーブルに伸びる撩。

「俺、上にいるわ…。」

「え?だって、唯香ちゃん、あんたにも会いたがっているのよ。」

「おまぁ、唯香の本業忘れたわけじゃあないよな?」

「う…。」



言わんとすることは分かる。

あの時と同じように、根掘り葉掘り質問攻撃されることは目に見えている。

とりあえず、香はこめかみにつつっと汗を一筋たらしながら、

飲み物の準備をした。

「たぶん、麗香や冴子に色々聞いてんだぜ。」

自分の腕を枕にして上体を倒したまま、ふーと細く息を吐き出す。

耳に届くかちゃかちゃとグラスが鳴る音。

「……ど、どうしよう。」

香は眉尻が下がったまま冷蔵庫を開ける。



関係が変わったことを隠し誤摩化し通すか、

正直に白状するか、

どちらも苦問である。

しかし、さっきの外での彼女とのやりとりで、

もうあらたかたバレていることを思い出す。



「さっき、おめでとうございますって言われちゃった…。」

「ああ?」

「で、でも!わ、わかんないのよ、唯香ちゃんがどこまで知っているのかはっ。」

林檎色の頬で、リンゴジュースをグラスに注ぐ香。

待たせると悪いので、コーヒーの準備は見送って

3人とも同じ飲み物にする。



「……認めたら認めたで、速攻で小説のネタにされるの間違いなし、だな。」

「うっ、…そ、それはダメ、だわ。」

お茶うけがわりのクッキー缶を開ける手が止まる。

「黙秘。」

「たぶん、それもダメっぽい。」

溜め息をつきながら、器に菓子を移す香。

「だって、撩の通っているお店では、もう知られちゃっているんでしょ?

きっと唯香ちゃんも、そのうち情報をキャッチしちゃうわよ。」

「うぅ〜。」

「とりあえず、あたしリビングに行くから。」

ひょいとグラスとクッキーが乗ったトレーを持ちキッチンを出ようとする。

廊下に一歩出たところで、あっと振り向いた。

「来るんだったら、ちゃんとヒゲそった方がいいわよ。寝癖もついたまんまだし。」

「あーん?」



撩は、突っ伏したまま香の背中を見送り、

跳ねた髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回した。


***********************************
(8)へつづく。





お二人さん、どうする?
しおりちゃんが、フライングハンマーアタックをした時、
確かジュースをみんなに出していましたので、
ここでも甘い飲み物を用意させちゃいました。

21-06 Invasion

第21部 Invasion Of A Novelist

奥多摩湖畔から11日目  


(6)Invasion *************************************************************2860文字くらい



香と唯香が、アパートに向かっている頃、

撩は香のご機嫌をなおすために、

ヒゲをそるのも後回しにして、

香の黄色いエプロンをつけ家事をしていた。



吹き抜けに干してあった、4枚のシーツを回収してたたみ、

香が出かける前に回していた洗濯機の中身も

乾燥機に移して然るべき操作をし、

キッチンでは食器も洗い上げ、丁寧に布巾で水気を拭い食器棚へ戻し、

次はリビングに掃除機をかけようかと、

倉庫から掃除機を連れて引きながら、がらっとベランダの窓を開けたのだ。



そこでキャッチできたのは、

香ともう一人、手を繋いでというより引っ張っている小柄な制服の少女。

「げげっ!」

手すりに身を乗り出した撩。

持っていたノズルがガシャンと落ちた。

100メートル以上は離れていた位置からではあったが、

香ともう一人の人物を間違えようがない。



「かぁあああ、一番捕まって欲しくないヤツに捕まったか…。」



撩はこめかみを押さえて、そのまま窓枠に寄りかかりながら

ずるずると座り込んでしまった。

12日前の奥多摩での結婚式。

冴子と麗香は参列し、その場に居合わせたが、

唯香は美樹とファルコンとに面識がなく、

挙式には同席しなかったものの、

二人の姉から、情報を仕入れた事は容易に想像がついた。



「追い返す…ってワケには、いかないよな…。」



はぁとうなだれる撩。

今は、香と夜一緒に寝るために

『撩ちゃん頑張るプロジェクト』を実行している最中。

また香が喜びそうな食事も作ってやろうかとイメージしている時に、

この客の登場によって、すでに不穏な未来が確実となっている。

はっきり言って、彼女は苦手である。

1年前、ガードの名目上致し方なく数日過ごした中で、

短期間のうちに、

鋭い感性と洞察力で自分の深層心理を読み切った天敵とも言える存在。

色々な意味で非常にタイミングが悪い。



「どぉーすっかな…。」



どうもこうもないのだが、すでに二人はアパートの前。

のっそりと立ち上がり、ふぅと息を吐き出すと、

とりあえず掃除機を廊下の倉庫にしまうことにした。





「わぁー、本当に久しぶりー。」

冴羽アパートの前で6階を見上げる唯香。

「あれから1年だもんね。」

香は苦笑しながら、ビルの入り口を開けた。

一緒に、コンクリートの壁面に囲まれた階段を登っていく。

「ねぇ、香さん、冴羽さんは出かけてないの?」

「あー、わかんない。

あたしが家を出るときもまだ起きてこなかったから、

もしかしたら出かけているかもしれないけど…。」

と言いながら、玄関の扉を開けると撩の靴があった。

「あ、いるみたい。」

「わぁ、うれしい!お二人一緒に会えるなんて!」

きゃぴきゃぴと喜びをあらわにする唯香。

香は、スリッパを出しながら、はっと気付いたことがあった。

「あ!」

「え?」

「ゆ、唯香ちゃん!ご、ごめん!

ちょ、ちょっとここで少し待っててもらえる?す、すぐ戻るから!」



香は、やや赤くなりながら、

大急ぎで5階の玄関から6階の吹き抜けに駆け上がった。

「あ、あら?」

イメージしていた光景がない。

7階の通路の手すりに夕べ干していた

タペストリー状態のシーツ各種がなくなっていた。

「え?え?どうして?」

理解が追いつかない香。

自分が片付けた記憶はない。

「ま、まさか撩?」

唯香に見られたくなかった事案が消滅したので、

とりあえずそのまま彼女を呼ぶ事にした。



「唯香ちゃん、ごめんね。いいわよ、上がって来て。」

一時停止の意味は一体何だったのかと、

すっかり取材モードの女子高生は周りへの観察眼を最大限にして、

階段を上がり、香と合流した。



「どうしたんですか?」

「あ、いや、その、ちょっと下着とかをここに干していたもんだから、

それを片付けようかと思ったんだけど、し、しまったの忘れてわ…。」

リビングに続く扉を開け、廊下を進みながらそう答える香。

唯香はきっと何かを隠していると、きらんと目の端が光った。

「あたしは、ちっとも構いませんよー。同じオンナですし!」

「で、でもお客さんの目にはあまり見せたくないもんでしょ?」

リビングに入る二人。

「まぁ、確かにそうかもしれませんね。」

「そ、そうなのよ。じゃ、じゃあソファーに座って待ってて。

今飲み物持て来るから。」

「はーい!」



にっと笑った唯香は、テレビの前を横切り

ソファーの短辺側に近付き、床に鞄をおいて、ぽすっとクッションンに腰を下ろした。

くるりとリビングを見渡す。

「……特に、変わりはない、みたいだけど…。」

あごに人差し指を当てながら、

今後なかなか来られないと思われるこの場所に、

ネタやヒントが隠れていないか、目を動かしながら静かにサーチする。



麗香から話しを聞いたのはつい3日前。

最近の探偵業の内容を探りにまずは電話連絡をしたところ、

自分のところより、今はお隣をお薦めするわ、とかなり意味深な言葉を聞いたのだ。

深くは語らない姉に訝しがりながら、

すぐに冴子の職場に連絡した。



『冴子お姉ちゃん、今忙しい?』

『忙しいに決まってるでしょ!』

『分かってるんだけどさぁ、教えて欲しいことがあって。』

『捜査関係のことだったらお断りよ!』

『ううん、違うの。冴羽さんのところ、最近なんかあった?』

『え?』

『麗香お姉ちゃんから、自分のところの情報収集より隣に行けって言われて、

あの2人、何か事件とか抱えているんだったら、

先に裏取っておいた方がいいかなと思って。』

『なんで、私が裏を取ることにつながるのよ。』

『だって、やっかいな仕事って冴羽さんのところに持って行くのお姉ちゃんじゃない。』

『はぁ?あんたってどんな先入観でモノ見てんのよ。』

『あら、事実でしょ?』

『そんなこと言っていると教えてあげないわよ。』

『え?!なになに?お姉ちゃんなんか知ってるの???』

『………。』

ふぅと溜め息が受話器越しに伝わる。

『?』

『……先週、私と麗香が結婚式に呼ばれたのは知っているわよね。』

『うん。』

『撩と香さんも一緒だったの。』

『えっ!』

『それって新聞にも出ていたあのどっかの国の人が、

奥多摩で捕まったって言ってたアレの時の事?』

『そ。』

『冴羽さんがやっつけちゃったの?』

『香さんが人質になったのよ。』

『あ…。』

『あのオトコも、やっと覚悟を決めたってところかしらね。』

『………それって』

『私が言えるのはここまで。』

『ずっるーい!!!』

『忙しいから切るわね。』

『ねぇ、ねぇ、もしかして、冴羽さん、香さんを助けた時に、

こく…』

ガチャ!ツーツーツー…。

『………間違い、なさそうね。』



麗香の微妙な言い回しに、冴子の多くは語らない現場の話し。

あれから季節が一周した。

そろそろ何かあってもいいのではと、思っていたところに、

この二つの情報は、唯香の推察力を刺激するのに十分だった。



そして、3日たった今日、ようやく学校の日程の都合で、

午後早く解放されたので、電車で新宿駅を降り立ったところ、

香を発見した次第。



「絶対聞き出してやるんだから!」

唯香は、膝の上にワープロを置くと電源のスイッチを入れ、

すっかり取材オーラ100%に気分を盛り上げていた。


***********************************
(7)へつづく。






唯香ちゃん、やるきまんまんです。

21-05 Meeting Again

第21部 Invasion Of A Novelist

奥多摩湖畔から11日目   


(5)Meeting Again *****************************************************1663文字くらい



駅までの道のり、行きは何も問題がなかった。

異変があったのは、帰りのこと。



「香さぁーん!待ってぇー!」



駅側に背を向けて家路に向かう香から、約数十m離れた地点で声がする。

若い女性の声、きっと自分以外の可能性もあると、思いつつも、

発信源につと振り向いた。

目に入ったのは見た事のある制服。



「え?」



香の足が止まった。

革靴を鳴らしながら小走りに接近してきたのは、

1年前にガードをした女子高生。



「ゆ、唯香ちゃんっ!」

「っはぁ〜、追いついたぁ〜。」

肩を上下させて、膝頭に片手をつく。

鞄も服も学校指定、登校にしても下校にしても中途半端な時間。



「唯香ちゃん、驚いたわぁー。元気してた?」

香の声に深呼吸をして、がばっと上体を起こす唯香。

目がかちっと合う。

「お久しぶりです!」

鞄を両手に持ち直し、背筋を伸ばし、首を少しかしげてにっこりと笑う。

「もう学校終わったの?」

「あ、今日は先生たちの会議があるからって午後の授業なくなったんです。」

ようやく息が整ってきた唯香は、言葉を交わしながら香の上から下まで

バレないようにサーチする。

(キスマークとかは見えないか…。)

「ちょうど冴羽さんのところに行こうとしたら、

改札出たところで、香さんの後ろ姿が見えたんで…。」

「それで追いかけてきたの?」

「はい!よかったです!ここで会えて!お留守だったら出直しがなかなか難しくて。」



立ち止まって言葉を交わす二人の脇を、

幾人もの通行人が避けるようにすれ違って行く。

「あ!もしかして、今受験生?」

「そうなんです。もう周りのみんなピリピリですよぉ。」

「そっかぁ、大変だぁ。」

「香さん、今から遊びに行ってもいいですか?」

「え?」

「もう聞きたいことが、たぁーくさんあるんですよぉー。」



香はぎくりと肩が縮まる。

同時に、かぁああと頬が染まった。

その変化を唯香が見逃すはずはなく、

可愛い笑顔のままにんまりと口元が三日月になる。




「へへ、お姉ちゃんたちから、ちょこっと聞いちゃった。」

「へ?あ?な、なにを、か、かしらぁ?」

「香さん!おめでとうございますっ!!!」

深々と頭を下げながら、

半径20メートル以内の人間には確実に聞こえるような

ひときわ大きな声で祝辞を伝える女子高生。

香は大慌てで、手足をばたつかせて、

周囲を見渡し知っている人がそばにいないか首をくるくる動かした。

「ちょ、ちょ、ちょっと、ゆ、唯香ちゃんっ!

お、おめでとうって、一体、ど」

どういうこと?ととぼけようと作戦を選んだとたんに、

制服の彼女から、ずばっと決定打を下された。



「奥多摩の結婚式であったことを、是非聞かせて下さいっ!」



香は赤くなったまま硬直。

視線も泳いで、まともに唯香を見られない。

「は、はは、は…。」

唯香は、香の表情で自分が二人の姉から聞いた断片的な情報から、

自分の推測がほぼ間違いないと確信する。

「あたし、冴羽さんと約束したんです。」

「え?」

香の視線が彼女に向けられる。

「結論が出たら書かせて欲しいって。」

「は?」

「なのに、ちゃんと教えてくれないなんて、失礼だわ!冴羽さんったら!」

腕を組んで、少しぷんとする制服の少女と撩との間に、

そんなやりとりがあったとはつゆ知らず。

しばし、きょとんとしていたが、

その間にも通行人の荷物が香に幾度か当たってしまい、

明らかにこの場で話し続けるのは、公共の邪魔になる状態。



「ちょっ、ちょっとここで立ち話を続けるものなんだから、

場所をかえ」

「わ、行っていいんですか?」

唯香は鞄を腕に通し、両指を胸の前で絡ませて伸び上がった。

その瞳は見事なまでにキラキラしている。

どこかの喫茶店にでもと言いかけたのを、上手に遮られ

この空気では、もはや断れない流れになっていた。



「あ、あはは、ウ、ウチ散らかっているけど、そ、それでもよかったら…。」

「やったぁー!うれしいー!さ!行きましょう!」

唯香は冴羽アパート訪問の許可を得た事に、

心の中で大きなガッツポーズし、

香の腕を引いて足取り軽く7階建てのビルに進んで行った。


***********************************
(6)へつづく。






バタつくカオリンは、
沙羅ちゃんと屋上で仲直りする時のあのバタバタで重ねて頂ければと…。
原作では、唯香ちゃんの学年は明記されていなかったように思えますが、
一応ガードを受けた時は高校2年生の設定とさせて頂きました。
ただし、あの勉強シーンの数学の関数曲線が
一体何年生で習うものか未確認なので、
ここからまたなにかたぐった方がいらっしゃいましたら
教えてほしいわ〜。

21-04 Alone In The Kitchen

第21部 Invasion Of A Novelist

奥多摩湖畔から11日目   


(4) Alone In The Kitchen **********************************************1959文字くらい



「あら、用意はしてくれたのねん。」



キッチンのテーブルの上には、コンビーフ丼とみそ汁椀。

完全飯抜きを覚悟していた撩は、苦笑いをしながらくすりと口端を上げた。

シンクに立ち、口を漱(すす)ぎ、ばしゃばしゃと顔を洗う。

首にかけているタオルで雑に水気を拭った。

香がいたら、即「洗面所に行ってやってよ!」と確実に苦情を言われる行動。

薄く伸びたヒゲはそのままで、みそ汁の鍋を温める。

丼をレンジに入れてスイッチを押す。



「コーヒー…」

と言いかけて、入れてくれる香がいないので、

食器棚をがさがさ漁って、インスタントの瓶を見つける。

あまり出番はないが、豆が切れた時の非常用。

「これでいっか…。」

一人ではミルを挽くのが面倒くさい。

ポットの湯を少しヤカンに移して沸かすことにする。

ぼっと火がついたら、テーブルの上にある新聞を手に取る。



「……ふん、特に目立ったことはねぇな。」

速読でチェックをすませて、ぽんとテーブルに放った。

その間に、みそ汁も加熱され、ヤカンの湯も沸騰し、

レンジも温め終了を告げる。

「食うか…。」



コーヒーカップに熱湯を注ぎ、食事の準備が整うと、

箸を持ち、丼を左手で持ち上げた。

「これも槇ちゃん仕込みかぁ?」

はぐっと一口かき込む。



槇村と組み始めた初期に、ここで槇村が撩のためにと

作ったメニューであることを思い出す。

「ったく、キョーダイそろって似た味付けだこと…。」

無意識ににやつきながら、二人の顔を思い浮かべる。

とりあえず、今日初めての食事がこんな時間なので、

空腹を満たすためにがつがつと口に運ぶも、

やはり香がそばにいなくて、正直かなり寂しい。



これまでも、一人遅起きで一人飯は珍しくない日常的なことであったが、

香との関係が変わってからの一人の食卓は、

はっきり言ってもう勘弁と思うくらいに

居心地が悪い。

こうして食べている間にもすでに幻聴幻覚的な感覚が過(よぎ)って行く。



— おかわりいる? —

— はい、ヨーグルトも食べといてね —

— ちょっと、もう少し落ちつて食べなさいよ —

— あたし、洗濯物干してくるから —



基本おしゃべり好きな香は、

リビングにいてもダイニングキッチンにいても、

耳心地のよい会話を絶やさない。

それがない空間は実に静かで、

一人食いのむなしさを一層濃くさせる。

視野の端に、流しのそばに立つ香の後ろ姿が脳内で勝手に合成された。



「ボクちゃん、重症かも…。」



すでに重度のカオリン中毒、

そばにいて欲しい欲求が、空腹が満たされる目盛りと同調していく。

ゴミ出しの失敗で香の機嫌を損ねてしまった撩は、

今日のこの後の作戦を練り始める。



「……寝ないって、言い張るだろうなぁ。」



最後の一口をぱくりと頬張り、

みそ汁でぐびりと流し込む。

「ごっそさん。」

食器を重ねてシンクに置き、また座り直した。

頬杖をついて、寄り目でコーヒーを飲む。

やはりいつもと違う味なので、

ここはどうしても香にいれてもらいたくなる。

ふぅとまた溜め息を吐き出す撩。



6年以上の時を重ねて、

ついに関係が変わってしまったのは12日前。

一人で客間なんぞに寝かせるものかと、

毎夜自室に連れ込む日々に、

もう香なしでは自分も床につけなくなっている。

どうしたら今晩以降、香と一緒に穏便に横になれるか、

撩の頭の中の回路が、数十通りのパターンをはじき出すも、

いずれも成功率2割以下と算出される。



頬杖をついたままで、

飲み終わったコーヒーカップをことりとテーブルに戻す。

香が伝言板だけなら、行って帰ってくるまで往復30分もかからない。

キャッツもまだ開いていない故、

寄り道がなければ、もうすぐ帰ってくるだろう。

そこまで考えて、撩は、はっと眉を上げる。



「あいつ!一人で歩いていったのか!」



はぁああ、と情けない息を吐き出しながら、撩はテーブルにごとっと突っ伏した。

恐らく、行きでも帰りでも、きっとおせっかいな連中が香をとっ捕まえて

余計なことを言い散らかすに違いない。

もうしばらくは、一人歩きさせないでおこうと思っていたが、

くだんのことばかりを考えていたので、すっかり忘却していた。

今から追いかけて、香を回収しに出ても、

またそれが余計なウワサのネタになる。



「くぅぅ〜、朝もっこの代償がこれかぁぁぁ。」



テーブル額をつけたまま悶々とする撩。

とにもかくにも、

今日の夜、何が何でも香を一人で寝かさない作戦を組み立てねば、

冗談抜きで夜這いになってしまう。

それもいいかもとちらりと思うが、やはり今の状況では

香が少しでも嫌がることは極力避けるべきだ、と別の善意が訴える。



「……よしっ!」



がばっと起き上がって立ち上がり、両手をテーブルにつく。

「リョウちゃん、頑張るっ!」

ふんっと一つ鼻息を出すと、腕まくりをして、シンクに向かい、

ぐいっと蛇口を回すのであった。


***********************************
(4)へつづく。





カオリン中毒、
もうご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、
カオリンという鉱物が存在するということで、
カオリストとしては、一度見て触ってみたい気も…。

21-03 Bowl Of Comed Beef

第21部 Invasion Of A Novelist

奥多摩湖畔から11日目 


(3)Bowl Of Comed Beef ********************************************* 2246文字くらい



「何つくろ…。」



シャワーと着替えを終え、洗濯機のスイッチを押し、

キッチンに入った香。

いつものジーンズスタイルにライムグリーンのハイネックに

白いトレーナー。

その背中は、もんもんと悩んでいる。



朝昼兼用というどころの時間帯ではない。

今から真面目に作り始めたら、仕上がる頃には

3時のおやつの時間のほうがむしろ近くなる。



「はぁ…、なんで起きれなかったのよぉ…。」



くるるるる、と自分の胃も再び空腹を訴える。

炊飯器の中には、朝のうちに炊きあがっている白米。

夕食のことを考えると重たすぎる訳にもいかない。

この中途半端な時間帯での食事作りに、

冷蔵庫を前に立ち尽くす香。

まずは、いつもみそ汁を作る鍋に水を入れ沸かすことに。



これから伝言板も見に行かなければならないし、

撩に課せられた縄跳びもある。

洗濯物も、昨日買って来た分を早く片付けなければならない。

買い物は、昨日の買い出しで間に合っているからよしとして、

このままでは、あっという間に夕方になること間違いなし。



肉類を解凍する時間もないので、

香は戸棚の開き戸のある常温保存食品倉庫を開けた。

「よし!コレにしよう!」

手に取ったのはコンビーフの缶。

以前、撩のツケを払いに行ったお店で1ダース入りの箱ごともらったものだ。

オーナーのママさんから、

珍しく発色剤が使われていない国産牛の品が手に入ったと

日頃の御礼代わりに押し付けられた。

非常用に未開封だった梱包を開ける香。

缶を3つ選び、白木のテーブルに並べ、1つ1つ開封する。

ガラスボールにそれを移し、木べらで形を少し崩しておく。

先に加熱中の鍋は沸騰し、

香はスライスされた乾燥椎茸、

お麩、夕べのうちに塩抜きしておいた塩蔵ワカメを投入して、

中火に調節。

次は素早くまな板を出し、包丁も軽く流水に流して、

タマネギの薄切りを用意する。

大玉1個分と青ネギも手早くカット。

冷蔵庫から卵を取り出し6個分をボールでときまわす。



一区切りついたら、次はシンク下から中華鍋を取り出し、火をかける。

熱せられたところで、オリーブオイルをいつもより少量かけ回し、

ほぐしたコンビーフを投入。

肉の脂ですぐにしっとりと柔らかくなり、香りが漂う。

元の形がなくなったところで、タマネギを一緒に炒める。

コンビーフにもともと濃い塩味がついているので、

塩こしょうの調味料は必要なし。

じゅーという音とともに、食欲をそそる匂い成分が鼻先をくすぐる。

タマネギがしんなりしてきたところで、

溶き卵を一気に流し入れる。

菜箸からターナーに持ち替え、ざっくりと混ぜ合わせ、

きざみネギを多めに加えた。

黄色と緑とコンビーフの茶褐色が互いの色彩を引き立てる。

半熟状態で火を止めて、隣の鍋に味噌を溶かす。



「こんなもんかな。」



炊飯器を開けて、さくさくとしゃもじを動かすも、

保温時間が長過ぎた時の特有の固さと匂いで、やや眉を下げる。

撩用の大きな丼と、自分用のやや小さめなサイズの器を用意し、

白米を盛りつける。

中華鍋から、コンビーフの卵とじを掬い上げ、白米の上に乗せ、

炒りごまと刻み海苔を振りかければ、コンビーフ丼の出来上がり。

2人分、ついだはいいが、まだ撩は降りてくる気配がない。



「もう、知らないんだからっ。」

待っている余裕もなし、起こしに行く気分もそがれたまま。

香は、トレーの上によそった大きな丼と、

カラのみそ汁椀、箸をセットしラップをかけた。

「とにかくさっさと食べて出なきゃ。」



かなり久しぶりに作ったこのメニュー。

「いただきます。」

一人でもとりあえず有り難く頂く挨拶は忘れない。

ぱくっと一口頬張ると懐かしい味に少し顔が緩む。



「高校の時以来、かな?」



これも、槇村が香に教えた急ぎの時のお手軽メニュー。

早くから兄妹だけの生活をしていた二人にとって、

この手のレパートリーは欠かせない。



「は、早く食べなきゃ。」



はぐはぐと一人で食事を進める香。

いかにして、これからの時間を使うか、

夜寝るまでのタイムテーブルを思い浮かべながら、

箸を口に運んだ。





その頃、撩はお怒りモードの香で部屋を出て行った香の気配を読みながら、

いつ降りて行こうかとタイミングを計っていたが、

どうも顔を合わせ辛い。



「……まずったよなぁ。」



ぐぅーと腹が鳴るも、今キッチンに行ったら

きっと繰り返し一緒に寝ないと宣言されるに違いない。

規則正しい日常の中で、生活環境の維持管理をしている香に、

いわばこのだらしのない生活リズムは、

すでに色々と支障をきたしている。

香の立腹状態も当然だ。



「どぉーすっかな…。」



仰向けで目を閉じ組んだ指は頭の下に通して、

はぁぁぁ、と溜め息をつく。

さっきからかすかに換気扇に吸い込まれ損なった食事作りの匂いが

7階まで流れて来て、さらに撩の空腹を煽る。



「腹、減ったな…。」



呼びに上がって来る気配はない。

そのうち、食器が重なる音が小さく聞こえて、

シンクで洗い物をしている動きをキャッチ。

バタバタと廊下を小走りに移動したかと思いきや、

玄関のドアがバタンと開閉され、かちゃりとカギも回された。



「あら、出かけちゃったのね…。」



放置された撩は、のそりと起き上がり、伸びをした。

「んーっ。」

頭をぼりぼり掻くと、床に投げられたトランクスを拾い上げる。

夕べ、入浴後にしか着なかったTシャツとスウェット上下も回収して

とりあえず着込んでみる。



「おりっか…。」



首にタオルをひっかけ、

がに股猫背でひょこひょこと部屋を出る撩。

時間は、もう2時を回っていた。


***********************************
(4)へつづく。





コンビーフ丼、旦那のカカサマの裏技です。

プロフィール

きまりも

Author:きまりも
since 2012.03.31.


5周年記念に
プロフ画像を貼ってみた。
十波ちゃん作。


中学高校時代に読んでいた
シティーハンターに
再燃しハマってしまいました。


ブログのタイトルは
ホトトギスの英名。
基本カオリストです。
丑年といえば年がばれるか?


9万hit記念に
とりあえず作ってみた
CH専用Twitter
 


拍手1000パチ記念につけちゃいました。



かなり便利なサーチツール

登録サイト最新情報はこちらをチェック!


試運転中…

カテゴリ
最新記事
月別アーカイブ
検索フォーム
QRコード
QR
現在の閲覧者数: