25-19 Deer

第25部 Narusawa

奥多摩湖畔から13日目


(19)Deer *********************************************************** 3558文字くらい



はっと目が開いた。



ガサガサ、パキ、カサカサと、

明らかに林床を踏みしめて移動をしている大きな何かがいる。

しかも、そう遠くない。



香は、さらに目を大きく開き、ごくりと喉を鳴らす。

「い、一匹じゃ、ない?」

複数箇所から、同じ様に落ち葉の上を移動している何かの音。

人形を肩口からゆっくりと降ろして、

ウエストバッグに手を伸ばし、手探りでローマンを取り出す。

こめかみに汗が流れた。

まだライトは消したままでいる。



聞こえてくる情報に耳を集中させる香。

まるで人が1列になって移動しているような、

不可解な足音に、少なくとも5、6頭の重たそうな動物の存在を感じる。

(ちょ、ちょっと待ってよっ!クマって群れるんだったっけ???)

きっと自分の額には、縦書きの陰が描かれているんじゃないかというくらいに、

さーっと血の気が引く。

集団でクマに襲われたら、もうおしまいだと、向こうが自分に気付かないことを

ただひたすらに祈り続ける。



ガサガサとあちこちで足音が聞こえてくる中、

そのうちの一つが、香のいるミズナラの巨木へ近付いてきた。

(ひぇー!!こないでぇー!!)

心で叫ぶも通じるはずもなく、ローマンを握る指に力が入る。

隙間から外を覗く勇気も削がれ、バクバクと暴れる心臓を何とか押さえたいと、

呼吸を整えようとする。

ガサガサと直近まで聞こえてきた足音と一緒に、

シャクシャク、パキ、ブフフフンと、

何かをちぎって食べるような音声が香の耳に届く。

「???」

震える指で、そっとシートの縁(ふち)を降ろしてみる。

目に入った、そのシルエットは、クマではなく、

シカだった。



(はぁぁぁ…、た、たすかった…。)



香は声を殺して、大きく息を吐いた。

脱力して、背中がすこしずり下がる。

角はなかったように見える。



香はもう一度状況を確かめるべく、ゆっくりエマージングシートの隙間を広げた。

体格のいい大人のホンシュウジカ。

角がないのはメスの証拠。

ちょうど、香が隠れていたミズナラの根の窪みの向こう側に

わずかに生えているクマザサを食べているところを

真横から拝める位置で食事中。



さっきよりも、森が明るいと気付いた香。

ふと樹冠を見上げると、

枝葉のシルエットの奥に、半月よりも少し膨らんだ月が天頂に昇っていた。

月明かりで、木々の縁取りが浮き上がり、

落ち葉の絨毯の上にも樹形の影が落ちている。



(月のあかりってこんなに照らすんだ…。)



満月だったら、もっと明るいのかと、

月がまだお目見えしていなかった時間帯との差にかなり驚く。

その間も、シカのレディーは香に気付かぬまま、

もしゃもしゃと大きな笹の葉を咀嚼する。



(もう、本当にダメかと思ったわよ…。)



そんなことを思いながら、

寒さで落ちてきた鼻水をすんと思わずすってしまった。

とたんに、ビクンと驚くシカに、香もひっと声が出てしまった。

¨彼女¨は、そばに何かがいると分かったとたんに、

バササッと体を翻(ひるがえ)して、ピーッと甲高い声を上げたかと思ったら、

臀部の白い毛をぶわっと広げて、一気に森の奥へかけて行った。

それに釣られて、周囲で同じ様に食事をしていた仲間も、

進行方向を同じくして、

目立つ白色の毛を見せつつ、ザザザッと林床を蹴りながら全て逃げ去ってしまった。





「………はぁああ、驚いたぁ。」



あんな小さな音でも反応するのかと、彼らの耳の良さを教えられた。

「お尻があんなに白くなるなんて…。」

警戒逃避の合図が、

森の闇の中で純白のハートマークが浮き上がる様に見え、

遠くに消えていった。



ここが新宿とは違うことを、思い知らされる。

「これで、おしまいってワケじゃない、わよね…。」

香は、腕時計のライトのスイッチを押して時間を確認する。

夜の11時、まだ朝まで7時間以上ある。

月はほぼ真上。

気温は一層下がっている。



「こんな調子じゃ、いつ何が来てもおかしくないじゃない…。」



一難は去ったが、

また次の予期せぬ訪問者が接近してくる可能性も十分ある。

しかし森が月明かりで少し見えやすくなり、

不安材料が少しだけ軽くなった。

人工的な明かりがない混交林の中で、

月光だけが注ぐ地表の上を、舞台にあがるかのように、

夜の生き物たちが主役になって活動している。



所詮、人間は後から来た新参者。

ここにキャンプ場やロッジが出来るずっと前から、

彼らはここにいたと思うと、

お邪魔虫は自分のほうだと、脅かしてしまったことを申し訳なくも思い、

とにかくクマだけは出ないでと、

遭遇することがないよう、握った手を額に当てて祈念する。



再び、風の音と梢が鳴る音だけが残った。

「朝まで長いな…。」

普段は何かと慌ただしく、

何もせずにただ夜明けを待つということそのものが

未体験ゾーン。

本一冊ないことが、かなり苦渋にも感じる。

人間って情報に飢えるものなのかしらと、思っていたら、

くぅーと胃が空腹を訴えた。



「お腹、……すいた、な。」



昼の醤油ラーメンを食べ、パーキングでホットミルクティーを飲んで、

ここについてから、水を二口三口喉に流しただけで、

食事をしていない。

手元にあるのは、

8センチ×5センチの乾パンが5枚入ったアルミ包装と、

水500cc弱のみ。



「開けようかな…。」



香はペンライトを出して、荷物をあさる。

取り出した非常食を照らしてみる。

これも英語で成分表示が書かれていた。

知っている一口サイズのものとは随分と1個あたりのボリュームが違う。

山切りにカットされた端の部分をぴっと縦に割り裂く。

乾パンの乾は「硬」と置き換えたくなる程の感触。

最初の一口をかりっとかじってみる。

「かたっ!」

気合いを入れないと噛み砕けそうにない食感に、眉が八の字になる。

「ちょ、ちょっと、こんなところで、ぼりぼり音立てる訳にはいかないでしょ…。」

静寂さが、ちょっとした音でも誇張させてまわりに広がりそうで、

静かに食べるにはどうしたらいいかと、しばし悩む。

「水で少しずつ流すしかない、か…。」

香は、ぱきっと最初のひとかけらをかじり折って、

ほんの少しだけ、水を口に含み、

もしゃもしゃと、ゆっくりと噛んで、柔らかくなったら飲み込むということを

時間をかけて繰り返した。

かなり冷たくなっている水は、あまり減らしたくない。

得意の節約モードで、まずはエネルギー補給だと簡素な食事を進めた。

「結構お腹に溜まるじゃない…。」

最初の1枚だけで、かなりの満足感を得る。

「ウチの非常食の在庫もまたチェックしなきゃね。」



随分と前に買っておいたものも、

そろそろ賞味期限切れになっているかもしれない。

いつ何時、アパートから出られなくなるようなことが起るか分からないし、

関東大震災も、そろそろだと長年言われ続けていても、

実際にそれに相当する災害はまだ起っていない故、これもいつ揺れてもおかしくない。

あるに越したことはないだろうと、

ちまちまと溜め込んでいる水や食料の管理も、

帰ったら、きちんとしておこうと、頭の中の雑務家事リストに一つ項目を加えた。



2枚目に手を出そうか迷ったが、

香はそのまま乾パンを包み直し、ウエストバッグに戻した。

歯を磨くことができないので、

口の中の残渣を、少し多めの水で漱ぐ。

それを口腔内に含んだまま、また迷う香。

(んー、どうしよう。このまま飲んじゃうか、吐き出すか。)

シートから出るのがやや面倒と思った香は、

見られているワケじゃないしと、こくりとそのまま水分補給にすることに。

「はぁ…、あったかい飲み物と一緒に食べたかったな…。」

冷水器のような水で折角保温されている体が

また中から冷えてきた。



「……撩は、ちゃんと食べてるのか、な?」



急に相方の食事が気になり出す。

所在が分からないことには、変わりないが、

根拠がなくても、なんとなく¨あいつはこっそり監視している¨気がして、

ついくすくすと笑いが漏れた。



「早く出発すれば、きっと朝のうちには山荘に着くはずだわ。

そこに行けば、……ちゃんと、会えるわよ、ね。」



そこで、はっと思い出して、

慌てて靴下の折り返しをめくる香。

隠し持っている、あの錠剤を飲まねばと、

袋状になっている小さなポケットに指を入れる。

拉致監禁されても、飲めるように、

下着や靴下などに常に忍ばせている一種の危機管理用のタブレット。

1日1錠、できるだけ同じ時間、そして21日連続の服用に7日間のブランク、

これをもう2年以上続けてきた。

今となっては忘れるわけにはいかない服用に、

必要最低限の水だけでこくりと喉に流す。



「ふぅ…。」



ボトルのキャップを閉め、大きなカメラバッグに戻し入れ、

ペンライトを消し、人形を抱きなおす。

撩のかわりにしては、あまりにも体格が違いすぎるが、

何かに触れているだけも孤独感の軽減になる。



「早く、朝になって…。」



そうつぶやいて香は、ゆっくり瞼を下ろした。


*************************************************
(20)につづく。






鹿も高級食材なんですよね。
オオカミ絶滅で増え過ぎた鹿を人が代わりに
ジビエ料理や毛皮製品として利用して、
森の植生を回復させる試みもあります。
今、ウチの子供が夢中で読んでいる
「山賊ダイアリー」(3巻.講談社)の92pに
主人公の岡本君が似た様に1月の山で
寒さと怖さに耐えるシーンがあり、
こっちは笑ってしまいました。(ごめん健太郎君)

次は、撩ちゃんサイトで一区切りです。

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プロフィール

きまりも

Author:きまりも
since 2012.03.31.


5周年記念に
プロフ画像を貼ってみた。
十波ちゃん作。


中学高校時代に読んでいた
シティーハンターに
再燃しハマってしまいました。


ブログのタイトルは
ホトトギスの英名。
基本カオリストです。
丑年といえば年がばれるか?


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試運転中…

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